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【時事評論2024】

平和論と平和主義

2024-04-24
  これまで「戦争論」については書いていたが、「平和論」については書いてこなかったことに気付いた(21.7.4「戦争論」)。まず先にこれを取り上げるべきだったのだが、現実が先行してしまったということだ。多くの人が求めるのは平和であり、時の為政者も平和を作るために戦ったという意識があるであろう。だが、部族内や国家内での平和は一時的に可能であったが、国内に対立勢力があったり、隣に対立する部族・国家がある限り、恒久的な世界平和は達しえなかった。この事実から分かることは、世界が1つの組織にまとまらない限り、平和は訪れないという現実である。最初から結論を述べているようなものだが、世にはそのことを無視した平和論がまかり通っている。それを「平和主義」とノムは考えるが、それは人間の願望に沿った感傷主義によるものであり、何の根拠もないイデオロギーであることは明らかである(23.7.19「感傷主義と歓喜主義」)。以下では、全般的な平和論を概観するとともに、それらが平和主義というイデオロギーから生み出されていることを証明したいと思う。

  ウィキペディアでは「平和主義(Pacifism)とは、戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場を指す」と説明している。そして平和主義を唱える人々は、如何にしたら平和を達成できるかについてはほとんど触れておらず、単に反対運動として政府や国連に「戦争反対」をデモしているだけである。唯一、共産主義は当初、世界同時革命によって世界を共産主義で統一することにより、平和が達成できると説いた。だがその試みはあえなく挫折し、反って惨たらしい内紛に明け暮れた。確かに共産主義者は、世界を統一しなければ平和を達成できない、と考えた点については正しかった。だがその手法が暴力革命によるものであったがために、失敗したと考えるべきであろう。

  人間界は競争で成り立っている(20.9.6「地球における人間の活動と競争 」・20.9.7「人間は競争および競争心を克服できるか? 」・20.9.16「競争はいつ芽生え、何をもたらしたか?」・21.1.31「良い競争と悪い競争」・22.8.10「競争原理 」)。国家の繁栄を誇るのも、競争に勝利したという意識から生まれる。そうした競争がある限り、そして主権を持った国家が195もある限り、絶え間なく続く競争から対立関係が生まれ、それは最終的に戦争という形でしか決着を付けることができない。平和を願うならば、まず人間界を統一した組織にする必要があり、ノムはそれを世界連邦という形で考えている。だが世界連邦が形成されるには、その過程で最悪の最終戦争があることも述べてきた。そして絶対的な力を持つ国家なり新たに立ち上げられた組織が、その連邦を形成するために必要とされることになるだろう。そのためには、大災厄を通じて、世界の人々が「もう戦争はこりごりだ。多少の犠牲を払ってでも、世界は統一されるべきだ」と考えるようにならなければ、統一は不可能である。戦争を無くすには、もう一つの条件がある世界から競争を無くし、共存思想が芽生えることである。ノム思想はその条件を叶える思想であり、未来世界には必要欠くべからざるものとなるだろうと考えている。

  現代の平和論が抱えている矛盾「平和を享受する権利」という概念に象徴的に表れている。つまり権利を基に、平和が達成されなければならないと説いているのである。その権利には個人的な「基本的人権」というものもあるが、国家が定める平和理念としての憲法もある。日本国憲法・フランス共和国憲法・イタリア共和国憲法などは、「平和的生存権」というものを掲げているようだが、これも権利を基準に平和を願望しているものである。だが権利というものは誰が保証してくれるのであろうか。人間界には最初から権利などというものが備わっているわけではない。人間が考え出した願望から出てきた権利概念や理念が、人々を誘惑して思考を妨げている権利からは平和は生まれないどころか、権利同士の衝突により紛争の種になるだけである。事実、主権を主張する国家同士は絶え間なく争っている(20.12.26[主権論])

  平和は願望から生じるものであってはならない。それは「力」という現実から生み出されなくてはならない。その力には当然のことだが武力が最低限の根拠となっている。さらにこれに思想が加わることで、支配下にある世界の人々を納得させることができるだろう。例えば日本という国家を考えてみると、戦後の体制では憲法に平和主義が明らかに明言されており、戦争と武力の放棄が謳われている。だが現実には世界の競争下にあることから、防衛力は認められるとして自衛隊が存在し、今やそれはあなどれぬほどの力を持つようになった。そして結果として日本国憲法の精神は破綻したのである。そもそも現実世界の中で、戦後平和憲法をアメリカに押し付けられたことからこの誤りは生じている(22.3.22「米国はこの際、日本憲法押し付けを認めよ」・23.4.10「日本国憲法成立の経緯とその矛盾」)。現実世界では利害の衝突を調整する機能を国連が持っていないため、武力は必要であり、それは人間界として必然の理であると考えるべきである。

  現在の平和主義というイデオロギーも平和論と同様な誤りを犯している(21.6.21「イデオロギーの本質」)。世界が統一されていないために起こっている紛争や戦争を、ただ口先だけで批判するのは誰にでもできる幼稚な反論であり、平和主義を唱えるならば、その達成手段を明確に示さなければならない。こうした平和主義の現状を踏まえて、ノムはこれを「幻想平和主義」と呼んでいる。平和主義者であればあるほど、権利を主張する傾向が強いため、連邦制度の下での諸々の規制を嫌い、連邦形成には反対するであろう(21.3.28「世界連邦の可能性」・23.1.23「連邦民の義務と責任、そして権利」)。デモを主催する団体や、これに参加する人々の中には、ある意味でビジネスとしてこうした運動を利用している者もいる。自分の生活費を稼ぐ時間さえ取らずに運動に没頭している人々は、何らかの形で生活資金や活動資金をこの運動から得ていると思われる。問題はこうしたイデオロギーに惑わされて、自分の意志でデモに加わっている人々がいることであろう。そうした人々は、単に感情的になんらかの不満を爆発させているだけに見える。

  イデオロギーというものは固定観念であり、根拠があるわけでも現実的であるわけでもない(21.6.21「イデオロギーの本質」・22.11.10「科学的議論を阻害している現代イデオロギー」・23.12.13「イデオロギーの歴史」)。ノムはこうした平和主義というイデオロギーは願望という幻想から生じたものだと考えている。事象の原因と結果を冷静に判断して論理的な説明を展開しているわけではなく、単に幻想的理念をこじつけているだけに見える。平和主義というものが現実性のないものであることが明らかになった以上、こうした反対運動を繰り広げるよりは、世界連邦形成運動を繰り広げた方が、より建設的で未来志向であると思うのである。

  本項を掲載後に今朝の産経新聞の「正論」コラムで櫻田淳(東洋学園大学)が、政権交代を目指す野党に対して『旧来の平和主義心情に根差した対外関与の消極性は、今や全く要請されていない』と忠告しているのを読んだ。つまり政権交代したはいいが、対外政策を取り合えず自民党時代の継承で間に合わせようとする「当面現状維持」で胡麻化そうとするのは許されないとしている。これまで日米という「点」で結ばれた関係を、安倍晋三がインド太平洋という「面」に広げた。それは日本の責任が重くなったことを意味する。さらに「米英豪のオーカス」からの期待もあり、日本が世界に果たす役割が広がろうとしている。そうした世界的政局の大変動に日本の野党が責任を果たせるとはとても思えない。もし野党や公明党が平和主義に凝り固まっていたら、日本に将来はない、中国に併合されると考えておいた方がいいだろう。

(4.23起案・起筆・終筆・4.24掲載0:00・追記11:30)


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