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【時事評論2023】

感傷主義と歓喜主義

2023-07-19
  いつものルーチンで産経新聞の一面を読みながら、フルグラとアイスココアを飲む。産経抄には戦災孤児のことが書いてあり、そんな惨状もあったのか、と改めて戦災孤児に思いを寄せた。だが抄子(産経抄筆者)は最後に、「そんな国が今、少子化対策で”国民運動”に取り組むそうである」と国の政策を揶揄した。これには非常に不愉快さが伴い、かつ違和感も感じた。何故かを考えていくと、そこには、①過去のことを現在の価値観で観ている・②過去の状況というものを理解しようとしない・③過去の国家と現在の国家を同一視している・④新聞特有の感傷主義と批判主義に満ちている・⑤過去のメディア(自分自身)の責任は棚に上げている、などが理由としてあった。以下では、主として人間の感情論について述べてみたい

  人間は感情に囚われる存在である。ほんの一寸したことが、人の心を傷つけたりもするし、喜ばせたりもする。そうした一時的な感情の高揚を過大に評価する人の思考を、ノムは「感傷主義」・「歓喜主義」という言葉に置き換えてみた感傷主義は、物事を心情的に考えようとする傾向であり、自己中心的な視点に立つ。多くの場合、それによって傷を作る場合を指し、自己憐憫型の性格を作りやすい。時には被害妄想に至る。歓喜主義は楽天的な人に多いのかもしれない。大げさに喜びを表現し、快感や快楽を求める傾向がある(22.10.18「快感・快楽の善悪論」)。こうした人は群衆に巻き込まれやすく、一時的興奮から暴動に走る傾向がある。こうした場合、感傷主義の人は暴動に巻き込まれることは少ないのかもしれない。

  どちらも感情の起伏を重要視し、その両端に価値を認めているように思われる。感傷主義は悲観的になりやすく、歓喜主義は楽観的になりやすい、とも考えられる。いずれにしても科学的証明がなされていないようなので、ノムの主観でしか分からない。どちらが良いとも言えず、むしろそうした気分の浮き沈みに価値を見出していること自体は好ましいとは思えない。それこそ悟りを開いた哲人のように、何事にも左右されずに冷静沈着に物事に対処できる人の方が価値が高いと考える。だがそれではまるでAIロボットのようでもあり、人間は人間らしく、喜怒哀楽にもっと素直に従うべきだ、という意見もあるだろう。確かにその通りであり、日本人はもっと外国人のように、自分を表現するのに長けるべきだとも思う。「ありがとう」という言葉は世界中にあるが、礼をするという動作的表現は少ない。その意味で日本人は表現手法は持ってはいるが、形式的になりすぎている感がある(7.16「」)

  感傷主義が悪い方向に働いた場合、上記したように、過去の事象を客観的に観ることができなくなり、現代の価値基準で感情的に判断してしまうことが多くなる。メディア人がそうした感傷主義の罠にはまってはならないのであり、過去の事は過去の状況を判断しながら評価しなければならない(20.12.5「事象の本質」)。感傷主義に陥りやすい人は、過去のことをくよくよ考えたり、今のことや将来のことを悲観的に考え易い。それも尤もなことであり、現代の世相からするとそう思わざるを得ないというのが実感である。NHKの「時事公論」という番組も「混迷の時代、刻々と変わるニュース・・」という言葉を使っている。昔のような当たり前の日常というものが失われ、いつ何が起こっても不思議ではない時代になっている。そうした感傷を振り払うかのように、気を紛らすために人は歓喜したくなるのかもしれない(23.4.30「人には興奮が必要」)

  歓喜主義者もまた自己中心主義に陥っている。自分の喜びを求めて、ひたすら熱中できるものを追い求める(6.12「人間の制限のない欲望」・6.29「人間の感情的衝動」)。そして多くの場合、こうした人々が戦争を推進してしまうようだ。それはオキシトシンの効果として科学的に証明された(7.7「人間の洗脳やホルモンによる制御は可能か?」)。特に質(たち)の悪いのが愛国主義に翻弄される人々であり、国家指導者の演説に熱狂しているのはこうした人々なのであろう(22.11.24「中国の紅い教育の是非」・3.26「愛国心は必要か?・愛国教育は必要か?」)。そして彼らは必ず、自国を戦争へと導いてしまう。過去にはドイツ人のナチズムへの傾倒があった。そして現在は、中国が愛国主義を推し進める中で、台湾侵攻へと突き進んでいる。中国国民のおよそ70%が支持しているようだ。こうした感情はノムからみれば原始的なサルと同じに見える。人間らしくないと思えるのである。

  人間が人間らしくあるということが、喜怒哀楽を素直に表現するものであるとしても、闘争や紛争、そして戦争にのめりこもうとする人々の激情と同じにすることはできないであろう。真の意味での人間らしさとは、隣の人との和に表れる。そしてそれが顔の見えない他者にまで及んだ時、本当の人間として完成されていくのだと思うのである(22.3.6「怒りの拳と平和の掌」)

(7.18起案・起筆・終筆・7.19掲載)


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