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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

イデオロギーの本質

2021-06-21
  本項は書き掛け中のまま、敢えて前日公開した。それはどのようにノムの思想が展開されていくかを時系列的に観る一種の動画のようなものとしてみようという試みからである。読者は時々閲覧することでストーリーの展開を楽しむことができるだろう。書き始めは6月21日の10:20である。

  10:00に起きた。昨夜は2時に寝たので8時間睡眠である。朝の一服でタバコの箱書きを読む。「たばこの煙は、あなただけでなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性を高めます」と書いてあり、その異常なプロパガンダに肌寒いものを感じる。なぜ嗜好品に対してこのような注意書きを書くのか、他にそのような事例がないのに、なぜタバコだけがこうしたファッショ的禁断のプロパガンダに晒されるのか、と考える。そのうち、「あなたの行動は周りの人々によって監視されています。あなたの行動はあなただけでなく、他の人々に影響を与えます。くれぐれも不穏な行動は差し控えるようにしてください」というようなビラがあちこちに貼られるようになるかもしれないと恐怖を覚えた。

  新聞の一面に目を通す。それから顔を洗い、また一服する。先ほどの思いが頭に浮かび、また新聞の記事からイデオロギーの抑圧について想いを巡らす。ブログにイデオロギーについて書いたかどうかを確認する。意外なことに書いていない。そこで「イデオロギーの本質」というタイトルを考えた。以前書いた論文を探す。2012年1月に書いた『イデオロギーによる議論の抹殺』(3433文字)、2012年10月に書いた『イデオロギーと思想と主義』(3629文字)、2014年5月に書いた『イデオロギーの本質』(9347文字)、2014年9月に起案した『真実とイデオロギー』(未着手)があった。やはり同じタイトルの論文を書いていたのだ。

  上記産経新聞の記事は沖縄戦について書かれたもので、某篤志家が米軍撮影の記録フィルムを募金でアメリカから買い取り、戦争を知らない子どもたちに見せる運動を始めた(「1フィート運動」として知られる)ところ、左翼運動家が入り込んできてこれを反戦運動に使おうとし、篤志家の知らないうちに会の運営が乗っ取られてしまい、映像が反米・反政府運動に利用されてしまったというものである。その典型が「白旗の少女」の動画であった。投降日本兵の先頭を少女が白旗を掲げて歩いているとされるものである。これを識者を含めてメディアがこぞって、「日本兵が何も知らない少女に白旗を持たせ、危険な先頭を歩かせた」と考え、「卑怯な日本兵」・「危険な米軍基地を沖縄に押し付けている日本政府」というプロパガンダとともに新聞などが批判したという。

  だがノムはこの掲載写真を見て違和感を持った。少女の後ろに2人の人物が従い、少し後方に反対方向に向かう2人の人物、そしてさらに少し後方に3人の人物が少女と同じ方向に向かって歩いているように見える。どう考えても後方にいる人物らが日本兵であったとしても、列の先頭を歩かせているようには見えない。まして反対方向に歩いているのはおかしい。真実は後日、この少女(であった女性)の証言で明らかになる。少女は避難豪で一緒だった老夫婦に白旗をもたされたのであって、日本兵とは偶然遭遇したのである。

  これをノム思想の「状況論」から考えてみた(1.18「状況理論」参照)。老夫婦は白旗の効果を最大限にするために、少女に白旗を持たせたのはごく自然なことであったろう。米軍も少女が白旗を掲げていれば敵意は無いと判断するだろう。ごく自然な行動が、イデオロギーによって曲解され、いいように利用された一件である。このような事例は韓国の徴用工写真と称して日本人労働者の写真が使われたのと似ている。イデオロギーはその目的(反戦争・反政府・反日)のためには、検証されていない写真などを都合よく利用するのである。上記篤志家は言う。「映像が伝えるメッセージが真実かどうかを、上映する側は厳格に検証しなければならない」と。このようなイデオロギーによるプロパガンダは左翼に限らず、戦時中の東京日日新聞(現毎日新聞の前身)が掲載した「百人斬り競争」にもあった。でっちあげ記事であったが、戦後、この2名の軍人は南京軍事法廷で死刑に処せられた。この両名の遺族は毎日新聞・朝日新聞・本多勝一(元朝日記者で『中国の旅』の著者)を告訴したが最高裁で敗訴している。

  タバコの箱書きを筆者が重視するのは、戦時と同じようなファッショが現代に於いて堂々と、異論もなく行われていることにある。少なくとも数万年の歴史のある嗜好品が、筆者の科学的見地から言えば取るに足りない科学的知見から否定され、それが嫌煙権運動という西洋的排他的運動によっていつの間にか世界的風潮に高められ、さらに日本の国策にまでなった(21.5.31「ノムの健康法 」参照)。それにも拘らず男性では未だ30%以上の喫煙率が維持されており、人類はこの嗜好品に慰めと安らぎを見出そうとしている。その支持者は主として貧困層男性に多いとされる。事実その鎮静効果は絶大なものであり、貧しい人はその一服に安らぎを見出している。その文化を失った(特に指導者)人々は、緊張を和らげる手段を失ったためにストレスを増しており、世界にとげとげしさを生んでいる。世界に紛争が絶えない理由の一つに、人間が緊張を和らげる習慣を失ったことがあるだろう。もしかつてのように紫煙をくゆらせながら指導者同士が懇談すれば、もっと和解の機会も増えているだろう(鄧小平・枝野幸男・自民党たばこ議員連盟261人)。

  ( いよいよ本題に入るとしよう。時間は11時50分を回った。家内の観ているテレビでは大谷翔平がまたホームランをかっとばした。執筆も佳境に入っている。)

  イデオロギー」というものは、理想という仮面を被った欺瞞である。ノムはこれを「固定観念」と理解しているが、それには「マルキシズム・宗教・愛国主義」なども含まれる。固定した価値観や理論から事象の全てを偏向理解しようとする考え方全てを指す。そこには科学的論証や議論、そして検証というものがない。すべて一言による断定が下されるのが常である。過去においては共産主義やイスラム教・カトリックがあまたの虐殺・殺戮を行ってきた。現在でもイスラム教は過激派による婦女暴行を容認しているように見える。過激派によるテロやレイプを非難したイスラム指導者というものを聞いたことがない。それはイスラム教自体が教祖による虐殺・殺戮によって広められた宗教だからである。その宗教の本質を考えれば、そこから出てくるものも自ずと明らかであろう。

  だがカトリックの虐殺・殺戮はキリスト教の本質である「愛の宗教」からは想像すらできない。それを解明するには歴史を観ていかなければならない。カトリックは文字の読めない平民に教えを説く時に聖書を使えなかったし、使おうともしなかった。絵を以て教えを広めたが、それは権威付けのためだけであって、愛を説く絵はほとんどない。そして異民族や異教徒を蛮族、もしくは非人間とし、時には鬼畜として扱った。それは結局文明の差が原因であったろう。そのためスペイン人やアメリカ人が異民族であるアンデスの民やインディアンを平気で殺せたのである。アメリカではプロテスタントであったにも拘らず、愛の宗教は形だけで、異民族との融和に何の役にも立たなかった。宗教がイデオロギーの本質をよく表している典型例である。

  共産主義というイデオロギーもまた、各国で変容して自分に都合の良い解釈が施され、主客転倒した論を平気で展開している。かつて日本の共産党の議員(党政策委員長)がテレビの討論番組で激昂したせいかあるいは冷徹にか、日本の防衛費を「人を殺すための予算」と発言して自民党の安全保障法制を批判した。公党の重要人物がこれほど幼稚なプロパガンダしか発し得ない政治というものが日本で許容されていることに驚いたが、共産党ならばあり得ることと納得した。彼ら共産主義者はソ連・中国で何千万という人々を粛清、もしくは餓死させたが、それは自己権力を守るための保身によって為された。日本の共産党もまた党内で粛清を行ったが、まだ可愛い程度のものであった。だがその弁舌は、本来人を殺すことを何とも思わないイデオロギーでありながら、詭弁によって国を亡ぼすために防衛費に向けられた。それは日本の政治を乗っ取ろうとするために、一旦中国などの共産国家に領土を支配させ、その同志として自分達が支配層になろうとしたからである。そのためには日本に防衛のための軍備をさせたくなかったのであり、その理由として上記のような論理(詭弁)を持ち出した。

  現在の中国が自称平和国家だと言いながら、台湾や尖閣に軍を送ってくるのも同じ論理であり、彼らにはまともな議論はないし、そうしたまともな議論をしようという意思もない。イデオロギーは最初から価値観が固定されているためである。だがその意味では民主主義というものもイデオロギーであると言える。中国がこれに反発するのには道理がある。つまり西欧国家が信奉してやまない民主主義は、彼ら全体主義のイデオロギーからすれば、体制に不安定をもたらすものであると見える。民主主義の歴史が共産主義の歴史より少々長いたかだか数百年しかない事を考えると、民主主義の正しさは証明されたとは考えられないし、むしろ昨今のアメリカなどの動きをみると、民主主義に懐疑的にならざるを得ない。中国のプロパガンダからすれば、民主主義よりも全体主義の方が優れているとする論理は、現状からすると正しい(20.4.9「全体主義の優位性 」参照)。だが優れているというのは一面を捉えた評価であり、それが善かどうかはまた別な話である(4.18「善悪の視点の問題 」参照)

  (ここでノムは昼食にソーメンを作って食べた。健康ソーメンと自称して、たっぷりのワカメ・糸こんにゃく・玉ねぎ入りである。そのあとビワの最後の収穫をやり、ついでにビワの木の太枝をバッサリ切り落とす大剪定をした。孫の相手などして疲れ、再び仕事に取り掛かったのは夜の10時過ぎ。【時事通信】を終えたのが真夜中の12時なので、続きは21日当日となった。)

  (21日は11:30に起きた。目覚ましは掛けないが丁度8時間睡眠である。早速一服のあと新聞に目を通し、フルグラを食べてブログを開こうとしたが、通信障害があってつながらない。日記を補記したあと繋がったので続きを書く。)

  イデオロギーに共通する事項を列挙してみる。
 1.理想主義的であり、非現実的・非科学的である。
 2.多くの場合理想とは異なり、一部が暴力的・残虐的・非道な手段を取る。
 3.イデオロギーを妄信する人には何を言っても議論にはならない。議論は不可能となる。
 4.イデオロギーは人の持つ心情から発する共感が常に伴い、それは一時的に爆発的に拡散するが、必ず馬脚を現す。  
 5.イデオロギーは人の持つ「思い込み」による生存を有利にする本能の一つの表れであり、力となり得る。

  イデオロギーを無くすことはできない。それが人間の生存本能に基づいているからである。だが未来世界ではこれを良い方向に向けることはできる(20.9.13「工夫・改善 」・1.7「制御思想」参照)。それはイデオロギーの持つ固定観念性を否定し、より良いベターな方法論を検討できる議論性を持たせることで可能である。議論が不毛にならないよう、AIが議論する者をその都度評価することで、より合理的・より道理的・より平和的な手法が議論可能になる(20.9.24「「ゲーム理論」とは何か? 」参照)。科学性のないイデオロギーはAIから低い評価しか得られないためにその有効性に疑問が持たれ、やがて顧みられなくなるであろう。

  (この執筆ストーリーはここで終わる。時間は21日の午後1:50である。)


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