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【時事評論2023】

日本国憲法成立の経緯とその矛盾

2023-04-10
  日本国憲法については、その経緯と矛盾について他の項でも触れてきた。今回、9日付の産経新聞の「The 考」に「憲法学の不都合な史実」(杉原誠四郎)という論考が寄せていたのを読んで、不可解な憲法成立に東大の権威学者が関わっていたことを知り、改めて憲法成立経緯の問題とそれによって生じた矛盾を解析してみることにした。なお本項では憲法成立までの国内での顛末までを述べることはしない。それは長い記述となるため、別項に改めて述べたい。

  日本人は戦後の日本国憲法を後生大事に教典のごとくに押し頂いているが、これが米国(正確にはGHQ)から押し付けられたものであることは既に明らかになっており、しかも時代が変わってきているのに、一度も改正・改訂されていないという世にも不思議な存在になっており、それを「ガラパゴス化」と評する人もいる。まずはその成立の経緯をかいつまんで取り上げてみる。

《 日本国憲法の成立の時代背景 》

1945.9.2:日本がポツダム宣言受諾
1945.9.22:米政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」発表
       この中に「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済および社会生活により一掃
      されなければならない」とある。
1945.10.4:警察首脳陣・特高警察官吏の追放
1945.10.22:帝国主義的または極端な国家主義的な教職員の放     
1946.1.4:連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により「公職追放
      が軍人・政治家になされた。
       この際、A~Gまでの項に分類。これが東京裁判でもA級戦犯~C級戦犯までの根拠となったと
      思われる。
1946:「就職禁止・退官・退職に関する件」の勅令交付・施行
       戦争犯罪人・戦争協力者・大日本武徳会・大政翼賛会・護国同志会関係者が職場を追われた。
1946.11.3:大日本帝国憲法の改正を経て「日本国憲法公布
1947.5.3:日本国憲法施行
1947.1.4:上記勅令(覚書)の改正
       これにより有力企業・軍需産業・思想団体幹部・多額寄付者も追放対象になった。

  1948年5月までに、合計20万人以上が追放された。結果、政財界の重鎮が引退し、中堅層に代替わりした。逆に官僚に対する追放は不徹底で、裁判官は完全に温存された。特高警察も多くは公安警察として程なく復帰した。これはそうしないと国家運営が危うかったからである。政治家の世襲制が確立したとも云われる。戦後の内閣を牛耳った吉田茂が力を持ったのは、吉田がこの規定を使って気に入らない人材を排除したことによると云われる。これを世に「Y項パージ」と呼んだ。良くも悪しくも独裁が成立したのである。また右派が少数派になったのに対し、GHQは左派を排除しなかったため、大学・学会・マスコミ・言論界・労働組合などで左派や共産主義者が大幅に伸長することになった。

1950.2:米国でマッカーシー旋風始まる
1950.3:自由党結成(吉田茂総裁)
1950.6:朝鮮戦争勃発
1950.10:中国が参戦・米韓軍を押し返す
1951.1:マッカーサーが原爆使用を提言
1951.4:マッカーサー解任・リッジウェー総司令官着任
1951.6:第一次追放解除
1951.8:第二次追放解除
1951.9サンフランシスコ平和条約

  マッカーサーは朝鮮戦争に対処するため、核兵器30~50発を満州に投下することをトルーマン大統領に進言した。トルーマンも脅しとして使用をほのめかしており、思惑は一致していた。だがマッカーサーが確実に使用することが分かり、トルーマンは止むを得ずマッカーサーを解任した。当時の英仏首相(クレメント・アトリー/ヴァンサン・オリオール大統領)が、もし朝鮮半島で原爆が使用されれば、ソ連(1949.8.29に初核実験)が西側に原爆を使用する可能性があるとの危惧を表明したからだと云われている。この構図は現在のプーチン戦争とそっくりである。

  重要な点は、GHQが右翼政治家・学者を追放したのに、左翼については全く気にしていなかったように見えることにある。特に憲法学者の中の右翼学者を排除すれば、その後任は左翼学者が占めることになる。こうして1945年には日本は左翼国家になりかねない状況が生まれた。或いは少なくとも米国従属国家になっていた。東京大学でその後任を務めたのは宮沢俊義(としよし)であり、自己保身からアメリカが押し付け憲法を合理化するための解釈をした。それがあまりに非常識・不合理・非道理的なものであったため、日本の新憲法は当時からガラパゴス化の第一歩を踏み出したと云える。産経新聞では元城西大学教授の杉原誠四郎が、「宮沢はいわゆる御用学者だった」と痛罵している。

  宮沢は当初、政府の憲法問題調査会の筆頭委員を務めていたが、そのときには明治憲法を改正するが大幅な改正はしないという立場を取っていたという。だが1946年2月13日に日本政府が占領軍から「マッカーサー草案」と呼ばれる憲法改正案(極秘)を示された際に、立場上これを手に入れ態度を一変させたという。マッカーサー草案には現在の憲法の大筋が盛り込まれていた(天皇は国家の象徴・戦争放棄・軍隊不保持など)。宮沢はその日のうちに当時の東大総長・南原繁のところに持ち込み、翌日には東大法学部の主要な教授が集められ、学内に「憲法研究委員会」が立ち上げられた。宮沢はその委員長に就任している。マッカーサー案の旗振り役を演じるためであった。こうした宮沢の変節については『ドキュメント皇室典範ー宮沢俊義と高尾亮一』(高尾栄司:幻冬舎)に詳しいらしい。その後も東大が憲法学を牛耳ることになり、米国に忠実な学説が打ち出されていった天皇を「ロボット的存在」とする学説まで出たという。9条の解釈では、「自衛のためであっても戦力さえ持ちえない」とする解釈がまかり通った。だが素人が現憲法を読む限り、そうした解釈は当然のことと思われる(22.2.27「憲法9条をどう見るか?」)現在に至る自民党政権が取ってきた解釈は、文章の趣旨を捻じ曲げた無理筋解釈であることは明々白々であり、即刻憲法を改憲しない限り、この論争は永久に続くことになる。

  米国(マッカーサー案)が日本に前代未聞の憲法を押し付けたのにも無理からぬところがあった(22.3.22「米国はこの際、日本憲法押し付けを認めよ」)。何しろ当時でも世界一を誇る大国を相手に、東洋の小国である日本が3年半も戦い続けたことは、米欧列強に「黄禍論」を定着させることになった。「日本を二度と戦争が出来ない国にしよう」、という理想主義的イデオロギーが米国を支配したとしても不思議ではない。だがその理想は戦後5年経った1945年に勃発した朝鮮戦争であっけなく崩れる。なんと日本に不戦憲法を押し付けた米国が、日本に軍備を備えるように要請したのである。それは米国が日本に駐留させていた軍兵を朝鮮に差し向ける必要が生じたためであった。米兵の居なくなった日本で、共産主義勢力が台頭することを恐れたのである。それなら、戦後に行った公職追放で、共産主義者も一緒にパージしておけばよかったのであるが、それには大義名分が無かったため見送った。結局アメリカ国内で1950年にはレッド・パージが始まった直後に朝鮮戦争が勃発したため、日本でも同様の共産革命が起こる可能性は高かった。米国は「不戦憲法」を押し付けた手前、日本に軍を備えよとは要求できなかったそこで後に自衛隊の元となる「警察予備隊」というものを作らせた。それは後に「保安隊」と改称され、ある程度の軍が持つ機関銃・760両に及ぶ装軌車輌・軽戦車や榴弾砲などの武器を備えたものであった。こうして現憲法の精神は、それを押し付けた米軍(GHQ)によってなし崩しになったのである。

  日和見学者・宮沢俊義はその後「敗戦利得者」として大きな果実を得た。公職追放を免れただけではなく、貴族院議員にも選出され、新憲法で貴族院が廃止された後も憲法学会の権威としてのさばった。安倍晋三内閣における憲法論議でも、東大憲法学がその議論に待ったを掛けた。なぜ東大という一国立大学の見解だけが憲法学会で重用されているのか、素人には分かりにくかったが、篠田・杉原の書いたものでその理由が明らかになったように思う。


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