本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

社会にとって有害なメディア報道(22.9.27追記)

2022-09-21
  メディアの野放図な世論誘導にはあきあきしている(20.7.19「メディア不信が募る」・20.9.20「メディアを糾弾する」・8.29「メディアのでたらめさを切る!」)。朝日新聞の「安倍下ろし」の社是に基づく一連の「桜をみる会報道」などが収まったかと思いきや、最近は「旧統一教会」・「国葬問題」に絡めて自民党への批判が続く(9.11「国葬の是非」・9.17「プロパガンダ」)。市井の人間からすると、宗教団体と政治との関係は創価学会と公明党の関係でも明らかなように、是非はともかく、切っても切れない関係にあり、ことさら旧統一教会にだけに焦点を当てるのはいささか見当はずれであり、もっと本質的な議論を巻き起こすべきである(9.18「報道疲れ」)自民党への批判のためにネタを探しているような有様では、国民の間にメディアに対して疑義が生まれるのも当然であり、世論調査でメディアへの信頼を問うたものはないが、世界の報道の自由度(日本は67位)がそれを端的に表しているだろう。本項では、少なくとも日本の現代メディアはすでに社会にとって有害な存在なのではないか、という視点から、改めてメディア論を論じたい。

  「モリカケ問題」と揶揄された重箱の隅を突くような報道が展開されたのは2016年からであった。もう忘れてしまいそうなささいな問題であったが、「モリ」というのは「森友学園問題」のことであり、不当に安く国有地が払い下げられたということから始まった。だからと言ってそこに贈収賄事件は見当たらず、森友学園に安倍晋三元首相の妻が100万円を寄付したことなど、市井の人間からすれば当たり前の行為であろうと判断される。ノムがウクライナ支援で1000ドル寄付したのと、意味で言えば大差はない。ただ首相夫人としては立場をわきまえなかったという不見識は咎められるだろうが、それは国政とは何の関わりもないことであり、メディアが執拗に追及すべき問題でもない。「カケ」というのは「加計学園」のことを指し、加計学園が山理科大学に獣医学部を新設したことから始まっており、許認可を巡って安倍と加計学園理事長との友人関係が疑われた。そうした交流関係が疑われるようでは政治家は何も行動できない。獣医学部の無い唯一の県に政治としてこれを設けようとするのは常識的なことであるのに、贈収賄の疑いを掛けたマスコミ・メディアは、この時点で既に社会にとって有害な存在となっていた。勿論、結果として検察などにより捜査は行われただろうが、埃の一つも見いだせなかった。

  メディアは通常、疑わしきは疑うを以て是とするが、それを公表したり扇動したりしてはならないのである(7.19「メディアの役割と責任」)。他社が書いたからと言ってそれを追従するようでは、見識が疑われる。産経新聞でさえ、その非を免れることはできなかった。そうしたことが起こる原因は全て、メディア界が競争下にあることにある。「すっぱ抜き(スクープ)」と称される初報道を巡って、各社は凌ぎを削る。その結果、報道機関がまるで捜査機関のようになってしまい、あるいはスパイ組織のような様にまで堕落してしまった(21.5.18「メディアは利益優先に毒されている」)。そしてついに公務員が忖度から文書改竄を行って、自責の念に駆られて自殺した。マスコミが不当な追及をしていなければ彼も文書改竄まではしなかったであろうし、結果的にみれば彼を殺したのはマスコミ・メディアである。モリカケ問題に追及の矢が届かなかったため、今度は2019年に政府主催の「桜をみる会」をやり玉に挙げた。その経費を問題としたのである。今日の国葬問題も同様であり、メディアは政府批判のために次から次へと些末な問題を重大視させる世論誘導を行ってきた(21.2.6「メディアによる「言葉狩り」に怒り」)

  またメディアは回送されてくる通信社の記事に適当なタイトルをつけて報道をしているが、そこには正しい見識はまるで反映されていない。たとえばこれを書いている9月13日の時点でのインフォシークの報道の中に、「露、戦局を覆す方策に乏しい実情」というものがあった(7.14「メディアはなぜ悪に加担するのか?」)。これは「判官びいき」の日本人の感覚からすると、ロシアに同情を引き起こすようなタイトルであり、クリックすると産経ニュースの記事のタイトルは「露、戦局悪化で政権批判警戒 増援派遣検討か」というものになっていた。これならばまだ世界情勢を全く知らない人にとっては、ロシアが善なのか悪なのかは判断がつかない。ノムであったならば、「ロシア敗走で増派検討か?」とでもタイトルを付け直したであろう(結局この記事は後追い記事なので取り上げる価値無しと判断した)。日本人は「敗走」という言葉を嫌うから、敗走するような軍を善だとは思わない。タイトル一つで読み手の心理は揺れ動く読者がどういう心理的反応をするかを読む技量が記者なりデスクには求められるはずである。「モリカケサクラ」問題の虚構を維持するために、メディアは散々こうしたタイトルトリックで読者の心理誘導を行ってきたのである。

  ノムは世界の良識や日本の良識に従ったタイトル付けを行っている。そのため各社の記事について、そのタイトルはほとんど書き換えており、記事内容まで書き換えた場合は、「(ノム通信/〇〇参考」と表示する。なぜタイトルを書き換えるかというと、そのタイトルがノムの価値観にそぐわないからでもあり、また記事内容を正確に反映していないからである。すなわち記事を読ませようという魂胆から、わざと本質とは別の注目される言葉を入れたりしている。たとえば同日13日のインフォシークのタイトルに「英国王、相続税支払い免除 なぜ」というものがあった。「なぜ」という一言を加えることによって読者の目を引き付けようとしているのが見え見えである。これについてはノムの記事では「英国王室には相続税なし」と事実だけをタイトルにした。英国が相続税をどう考えるかはその国の問題であり、日本人視点から判断すべきことではない。またそれを批判的に書くのは英国に対して失礼なことであろう。9月19日の読売新聞配信の記事タイトルの冒頭には「爪はがされ強制労働・・」という文字が躍った。衝撃的な感情を喚起させることで読ませようという魂胆が見え見えである。ノムはこれを「ロシア軍はスリランカ人まで拷問施設に長期間拘束」とした。これで拷問されたことは伝えられるし、記事の中で詳細を述べればよいからである。

  メディアが競争原理から記事のタイトルや記事内容に多少なりとも私心を加えているのは当然のことであり、ノムの記事も客観的とは決して言えない(8.10「競争原理」)。たとえばロシアや中国が西欧の批判をしている記事などは取り上げないことも多い。彼らの主張をそのまま取り上げれば、それに惑わされる人もいると思うからである(21.9.26「愚民論」・9.17「プロパガンダ」)。仮にロシアや中国の主張を取り上げたとしても、その背景なりを説明して、その主張が間違っていることを指摘している。つまり日本人目線で記事を書いている(20.4.26「メディアは市民が欲しい情報を伝えていない」・20.8.3「官公庁・メディアは国民目線でモノを考えるべき」)。だがニュースのほぼ半数はそうした視点に立っておらず、ロシアや中国の主張をそのまま取り上げている。たとえば9月27日のAFP伝では「プーチン氏 人々を救いたい」というまやかしのタイトルを付けた記事を発信している。まるでプーチンが良き指導者であると錯覚させるようなタイトルとなっていた。世界情勢を知らない人がその記事を読んだならば、「ロシアや中国の言うことにも一理はある」と思うだろう。客観性を装うことで読者に誤った認識を与えているとすれば、少なくとも日本語で書かれた記事である限り、それは日本社会にとって有害な報道となってしまうのである。

  世界各国の報道は、その国の国民基準に沿った書き方になっていると思われる。あるいは独裁国家である場合には、権力者にとって都合の良い内容になっていると思われる。事実を伝える場合にも、書き方次第でどうにでも読者の印象を左右させることができる。その典型を我々日本人は戦時中の「大本営発表」で学んだはずである。通常それはプロパガンダという言葉で言い表されるが、それがウソにまみれたものになり下がった場合、読者としては批判を通り越して怒りとならなければならないロシアが嘘ばかりを付いていることを考えれば、日本人としてロシアに怒りがこみ上げるのが当然であるし、中国については価値観の違いからくる中国のプロパガンダに対して嫌悪感を感じるのが当然であろう。

  以上のことを踏まえて、未来世界ではメディア報道はどうあるべきかを論じたい。未来世界では「表現の自由」と呼ばれている現代の価値観について、その自由の観念については否定的に考えている。すなわち、人間界では自由を認めると、それは際限なく拡大の一途を辿り、ついには社会全体の秩序を崩壊させると考える。だが一方、「報道の自由」を制限すると、過去の事例から学ぶまでもなく、独裁や専制という、より悪い状況がもたらされることも知っている。そこでノムは、未来世界では表現の自由も報道の自由も原則的にそれを認めた上で、それを国民なりが評価して評価点を与えるという制御要素を取り入れることにしている(21.1.7「制御思想」・21.3.29「未来世界の「四権分立」 」)。報道関連で言えば、メディア各社を組織として考え、「組織格」というものを設定し、国民がいつでもこれを評価できるようにする。それは記事の1つに対してもできるし、記事の中の文言、ないしは文章の一部に対しても評価できるようなシステムであることが望ましい。またテレビの報道や番組においても、その報道の一部に対して即座に評価が可能なように、リモコンに評価ボタンというものを付け加えることを提唱している。また個人がノムネット上に意見を表明する際には、人格点が表示されるようにする。そのことにより、読み手は意見表明した個人の主張に対して、ある程度の善悪の判断が可能になるだろう(20.8.30「未来世界における人格点制度」)

  さらに詳細を述べれば、新聞記事などは全て記者の実名が記載される。記事内容については記者が責任を負うことになり、デスクや新聞社の責任は低くなる。もし記事が問題を引き起こした場合には、新聞社が責任を問われるよりも、記者自身が責任を問われることになる。だがそうしたことはほとんど起こらないだろう。なぜならば、記事はすでに読まれた時点で国民から評価されており、その評価が記者の人格点・新聞社の社格点に反映されるからである。新聞社の記事が通信社の配信記事を購入した上で掲載された場合、通信社も同時に評価されることになる。これら評価に時間と手間が出来るだけ掛からないよう工夫する必要があり、たとえば新聞記事を評価する場合、テレビのリモコンでもMD(未来のモバイルデバイス)でも記事をトレースすることで読み取り、その部分の評価が可能となる。記事全体を評価する場合は、文末に付されたバーコード、もしくはQRコードを用いる。さらに新聞の1面だけを評価する場合は、ページごとに付されたコードを読み取ることで評価できる(21.2.1「ノム世界の情報システムの提唱」)

  こうして報道が評価可能になることで、自ずとメディアは自己規制して妥当な記事を書くようになるだろう。あるいはそこに良い競争が働いて、記者は自身の人格を引き上げるために、報道機関は自社の社格を引き上げるために、より国民の意に沿う正しく正確な記事を書くようになるだろう(21.1.2「メディア報道における良いニュースと悪いニュース」・21.1.31「良い競争と悪い競争」)。それはこれまでのように、国民に媚びた、あるいは愚衆を騙すような、もしくは惑わすようなものにはならないだろう(21.9.26「愚民論」)。記事にたいして批判的な視点を持つようになった国民は、記事の裏にある意図を読み取ることができるように賢くなり、煽情的な記事には低い評価を与えるようになるだろう。

  最後の問題として、記者とデスク(もしくは編集者)との関係について述べておこう。記者が書いた記事がデスクにとって気に入らない内容であったり、表現であったりした場合、デスクは記者に意見を言うことができる。上司として当然の権利である。だが記者がそれを拒否した場合、デスクは掲載の有無の判断は原則としてできない。もしそれが明らかになった場合は訴訟に持ち込める。記事の評価が良かった場合には何の問題もないが、悪かった場合には記者の人格点が下がる一方、意見を述べた上司であるデスクの個人評価が上がる可能性がある(直ちに反映する手法はまだ見つからない)。また社格が下がる方に行った場合、会社は記者を配置転換するか、そのまま記者としての仕事を続けさせるか、退社を迫るかを選択することになる。需要と供給の原則からそれは止むを得ないことであり、社には社員の配属・任免を決定する権限がある(20.9.22「生体に学ぶ需要と供給」・21.12.4「自己責任」)。だが良い記事を書いた記者を排除するようなメディアは、いずれ衰退していくということも覚悟する必要があるだろう。そうした意味において、朝日新聞は衰退していくだろうし、NHKは分割を余儀なくされるであろう(20.5.12「NHKのニュース報道に違和感」・20.11.17「NHKの「長寿推奨」は正しいことか?」・20.11.20「朝日新聞に名誉というものがあったのか?」・4.4「朝日新聞の自虐史観・亡国言論」)


TOPへ戻る