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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

メディアの役割と責任

2022-07-19
  前項で「メディア報道における状況論」を書き、メディアが置かれている状況というものが厳しいものであることを指摘した(7.18「メディア報道における状況論」)。だがそれは決してメディアを擁護するために書かれたものではない。逆にメディアの責任というものがどれだけ重いものかということに警鐘を鳴らしたつもりである。そこで改めて、メディアの役割と責任についても書いておきたいと考えた。

  世界に満ち溢れている情報というものを、人間は適切に選択できないほどになっている。古代においては情報は人伝たえにもたらされる伝聞か、自分で見たものしかなく、文字が発明されたことで、過去のことや遠くのことを知ることができるようになった。さらに情報伝達の科学的手法(電信・電話・FAX・コンピューターによるネット)が誕生したことで、より遠くに素早く伝達され、今や脳に直接情報を埋め込む技術さえ開発されつつある。脳を制御できる可能性がある技術が生まれつつあるというのが現状である。だがそうした情報伝達の多様化に伴って、人間は他から得た情報に惑わされるようになった。昔は新聞やラジオなどが影響力を持っていたが、今ではむしろテレビなどの映像メディアの方が圧倒的に影響力が大きくなっており、さらにSNSのような特定集団内での情報のやり取りが影響力を大きくしている。

  だが人間の脳は情報処理という点ではコンピューターには遥かに劣っており、また情報を適切に判断できる許容量も限られている。単なる記憶量という点では人間の脳にもかなりの能力があるが、速度という点ではこれ以上の進展は見られそうもない。そこで情報量が過多になると、人間は忘却・錯誤という欠点も持つため、判断に多くの誤りを生じることになる。また情報源の偏りということがあるため、人には多様な見解が生じるということになる。だが民主主義では、個人の持つ価値判断を優先し、思想の自由・表現の自由なども標榜しているため、物事の決定は多数決に依らざるを得なくなる。だがそうなると最大多数の最大幸福を求めることになってしまい、少数者にとっては不利になる。そこで自由主義世界では、少数者意見の尊重という概念を作り上げた。だがそれも特定の少数者に偏りがちであり、諸々のイデオロギーが生まれる結果をもたらした。それが現代の混迷に繋がっていることは明らかである。

  啓蒙思想というものが流行った時代がある。日本では大正デモクラシーが流行った頃であろうか。人間を正しい知識と考え方で導けば、人間は正しい判断を下せるようになると考えたのである。その考え方自体は正しいが、現代では何が正しいのか、何が善で何が悪なのか、ということすら不明になりつつある。人々の価値観が多様化し過ぎた結果と観るべきであろう。人間が、接した情報と経験だけでその人格と思想が決定されてしまう存在であるとしたならば、接する情報の良しあしでほぼ人間の価値観が決定してしまうことになる洗脳というものがここに手法として登場する(20.11.28「教科書による洗脳は是か非か」・21.12.20「ネットによる洗脳」)。独裁者は自分に都合の良い思想を民に教育という形で洗脳を施すが、民は他にも多様な情報源を持つため、容易に一様なものにはならない。その意味で情報源の多様化は必要なことではあるが、情報の受け手に自由を認めてしまうと、それは偏狭な考えを持つイデオロギイストを生みかねない教育というものは何をどうやって青少年に教えるかという、永遠の課題との闘いでもある(20.12.3「未来の教育」)

  だが青少年が学校という組織から独立し、自分で物事を判断するようになると、その知的好奇心はある特定の方向に偏り易い。宗教に走るとカルト集団に巻き込まれる可能性も高くなる。政治に走ると偏狭な陰謀論にはまる者も少なくない。そこで一般大衆に向けられた情報源としてのメディアの影響というものが重要な位置にあることが分かるであろう。メディアは大衆に媚びてはならず、大衆を正しいと思われる方法に誘導する責任が課されている。だが何が正しいのか分からなくなっている時代には、メディアはどういう姿勢を保ったら良いのだろうか。恐らくメディアに携わる人の多くが、「公正・正義」ということを念頭においていると思われるが、その公正・正義という概念ですら、現代では明確さを欠いているのが実情である。

  ノムは以前から中庸を好むタイプであるが、少年の頃から正義感は極めて強かった。仲間が虫を虐めているのを見て可哀そうに思い、一思いに殺したことがある。その時、人間の持つ無用な攻撃性や排他性を憎んだものである。長じてからは政治にも経済にも無関心であった。ひたすら無事に、人同士仲良く暮らしていけばそれで良いと考えていた。だが職業柄、地球が危機的状況であることを知り、その解決のための手段を探し求めた。それからは政治・経済・司法だけでなく、人間界の事象の全てに関心が向くようになった。そうした考えに転換したのは、一重に書籍などの情報によると思っている。そうした情報を知らなければ、ノムも平凡な生き方を選択していたであろう。

  つまり情報は人の生き方を決定するほどに重要なものである。時には人の語る言葉や、音楽や景色などが人の生き方を決定することもある。全てが情報という一括りで捉えることができる。その中でも最も重要なのが書籍であり、書籍によって影響を受けた人はゴマンといる。その次に影響が大きいのはメディアが与える情報であろうと考えられる。その多くはテレビや新聞であろうが、最近はネット情報の影響が若い人にとっては最大になっているのかもしれない。ノムの場合は高齢でもあるため、ネットにはまるで関心がない。だが自分が何かを知りたいと思ったときには、もっぱら書籍に頼ることはなく、ネットに情報を求める。であるから情報に影響されるということは極めて小さい。自分の生き方や知識は、自分から求めて探すのである。自分の感覚に合った、あるいは納得できる情報に出会った時の喜びは言い尽くしがたいものがある。だが、現代の人々は自分の好む情報にのみ接しようとし、それのみを受け入れる傾向がある。特定の新聞・特定のテレビチャンネル・特定の政党・特定の宗教に偏りがちである。そうなると、メディアがどんなに良い情報を流そうとしても、徒労に終わるだろう。

  ノムが思うに、現代メディアはそうした良い情報を流そうという努力をしてはいないようだ。せいぜい家庭欄でそうしたことをしている程度だ。むしろ情報の価値を売ろうとしている(21.5.18「メディアは利益優先に毒されている」)。それによって会社や記者が有名になろうとしているとも見える。人目を引く記事のタイトルの付け方を見てもそれが感じられる。決して公正で正義感に溢れたものにはなっていない。むしろ人々を困惑させ、惑わせ、混迷の縁に追いやろうとしているかのようだ。もしメディアが営利よりも、人々に与える影響というものを慮った上で公正で正義に立つ記事なりを書こうとしているならば、もっと真剣に自分の役割を問い直し、その責任を自覚して、真っ当な記事配信に努めるべきであろう(20.8.7「ジャーナリズムの在り方とその心構え」)

  最後に未来世界でのメディアの役割と責任について述べておきたい。未来世界ではノム思想の普及のために、メディアだけでなく、教育界から政治まで総動員されるであろう。たとえば子どもらに対しては、社会に貢献する人間になるよう叱咤激励し、表彰も行われるだろう。成人式を迎えた青年男女には、社会に如何に貢献するかが説かれるだろう。メディアに関して言えば、良いニュースの字数を悪いニュースの字数の3倍ほどにするように国家が指導するだろう(21.1.10「未来世界の良いニュースと悪いニュース」)。善行を行った人の記事や、一日一善を奨励する記事などが報道の中心になるだろう。未来世界であっても悪事は起こるし、犯罪は無くせない。だが世の中全体が善を志向するならば、悪のつけいる隙は極めて小さくなる。メディアは公正と正義に貢献することを求められ、それは悪をほじくり出すことによって為されるというものではなく、善を奨励することで悪の芽を作らないような世の中にすることで実現されるであろう。


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