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【時事評論2021】

事後評価・責任遡及主義

2021-12-28
  現代の法体系には「不遡及の原則」というものがある。たとえ犯罪とされるようなことが行われたとしても、それを罰する法規が無ければ人は罪に問われない。法規が後からできたとしても、それ以前の行為に対して人は罪には問われないということを意味する。だがこれは人間界の道理という観点からすればおかしなことであり、たとえ時の経過が罪を軽くすることはあったとしても、罪は免れることは出来ないはずである(6.16「道理論と法律論 」)既に被害者などが居なくなっている過去のことまで遡及する必要はないが、現在被害者と犯人が生きているならば、罪は裁かれるべきである。これについて筆者は、①「時効」という概念は道理の世界には存在しない・②犯罪は道理によって裁かれるべきである、の2点を強調したい。それは必然的に「事後評価・責任遡及主義」に繋がってくる。

  「事後評価」ということについてまず説明したい。現代では事象に対しての評価はその時に為されるのが最も重要となっており、それが時間経過とともに評価が変わるにしても、事後時効年数が経ってから責任を取らされる恐れはほとんどないため、人は皆その場しのぎの対策を練ることになる。だが事後も永続的に評価されるとなれば、人は現在の言動に注意を払うことになるだろう。これは人間心理を応用したゲーム理論から出てくる考え方であり、より人を善導するには事後評価は大きな効果をもたらすだろう(20.9.24「「ゲーム理論」とは何か? 」)。たとえば政治家が大胆な改革案を持ち出し、それが実現した場合には明らかに評価対象になる。もし失敗すればその責任は大きく、一生その重荷を背負うことになるだろう。また逆に実現しなかったとしても、後世にその案が見直されることもあるだろう。その場合、その政治家の人格点が後になって大きく上昇することになる。つまり正義を貫こうと思う義人が希望を持てるような仕組みになっている。人生が浮き沈みのあるものであるとすれば、一時的に否定されても後になれば正しさが分かるという希望を持てることは重要である。

  次に「責任遡及主義」について述べよう。これは事後評価と基本的に同じ考え方に立つものであり、人の行動や判断については、その責任が事後も続くように、以前の行動や判断に対して責任が問われるという考え方を指す。つまり2つのことは同じことを指している。現在の法制度では、法律というものは法律が施行されて以降に有効であり、これを「不遡及の原則」と呼ぶ。だが未来世界ではこうした法律主義的考え方は払拭され、罪悪が判明した時点でそれが犯罪であるか否かに拘らず、過去にまで遡って追及するという道理主義に取って代わられる。だがその「遡及原則」は経過時間とその当時になぜ訴追されなかったのかという事情も考慮されるため、過度に過去を怯える必要は無い。また政治的にこれを利用するということは厳禁である。韓国のように戦中・戦前の76年もの昔のことを未だもって許さず、諸代の日本の首相に謝罪を求めるというような馬鹿げたことは道理的に言ってあり得ない。また遡及原則はあっても、香港の民主運動家の周庭が、香港国家安全維持法(国安法)の制定前の行動が問われて逮捕されるというようなことも起こり得ない。それは香港の法制度が中国の介入によって根本的に変わってしまったという背景があるからである。もし周が2019年の行動で2020年6月30日施行された国安法により、その罪を問われるとしたならば、30年前のイギリス連邦時代の香港の1990年の法律を適用してもおかしくないことになる。このような時代背景の異なる法律を遡及的に当てはめることは道理に反することであり、未来では認めないのである。つまり「道理」は「遡及原則」に優先する。2020年9月にはエジプトで選挙の無投票者に罰金を科すということが検討されていた。これは既に終わった選挙の後のことであり、明らかな遡及適用をやろうとしていた。クーデターで軍事政権を築いたシシ大統領が「エジプト法は、投票しない者を罪と明記している」と述べ、罰金を徴収する考えを示したのである。独裁者の言うことに義(道理)があるわけがない。果たして改正した憲法に明記したかどうかも不明である。また憲法に明記されているからと言っても、具体的に法規定が無ければ、この遡及適用は現代の法制度では異端となる。

  未来世界で遡及原則を採用する理由は、人間の所為による犯罪が時効や法律が無いからという理由で免責されるのは矛盾であり、不条理であると考えるからである(4.4「犯罪の定義 」)。一度犯した犯罪(法律主義ではなく道理主義によって犯罪とみなされるもの)は、その犯罪者が一生を以て償わなければならないものであり、犯罪発生時点で最大の責任が問われ、その後の時間経過と共に償いは低減していくと考える。刑に服すことによって償いは短縮されるが、道義的責任というものは一生涯背負わなければならない。それが常識というものである。ところが現代の法に依る解釈では、人は罪を犯してもそれが見つからなければ時効によって免責されて罪にならない。また刑期を終えれば、普通の市民としての権利をほとんど回復する。実際は被選挙権を失うとか多少の権利の喪失はあるが、それは生活上で何の問題にもならない。そして平気で再犯を繰り返す確信犯も多いのである。そのようなことから、現実的に考えても現代の法制度には欠陥と矛盾が存在し、それは改善の余地が大いにあると見做さなければならない。現代法が絶対無二なものであると思い込むのは最大の愚である(20.2.2「トランプ弾劾に見る法律主義の機能不全」・20.4.11「法律主義の欠陥・平時と戦時」・20.7.29「日本の介護裁判判決にみる法律主義の破綻 」)

  幸いな事に、現代は科学技術の進歩により、犯罪の摘発も容易になり、犯罪の予防も可能になった。それとともに、人の悪意による犯罪を人間喪失であると捉えることにより、社会からの追放という極刑も視野に入れた全く新しい法体系を創り出すべきなのである。その一つとして、この「遡及原則」というものをここで取り上げることにした。未来世界では学校での学習で「知」よりも「道」を重んじることにより、社会人として備えておかなければならないマナー・エチケット、そして道義というものを学ばせる。「法」というものは道義の目安として存在はするが、それは大まかな目安であって個々の案件はその状況によって判断される(11.6「未来の法律 」)。明らかに他者を傷つけたり損害を与えたりした場合には犯罪が成立する。それは法によって成立要件が定められるが、個々の案件が要件に当てはまるかどうかは司法によって判断される。また社会的に非常に影響力が大きい場合には、司法の手から離れて国民が直接判断することもある。どちらを優先するかも、案件ごとに道理主義に沿って判断すべきであり、決着が付かない場合は最終的にAIの助けを借りる場合も出てくる。途中の段階でAIの判断を参考にすることも十分可能である(20.7.24「AIの適切利用 」・20.11.7「AIに期待する 」)

  法の定める犯罪要件を大雑把にしておけば、時代が変わってもその表現を大きく変える必要は無いであろう。現代のように細かい部分まで規定してしまうと、それに外れた案件では犯罪に該当しないものも出てきてしまう。それが技術革新の時代には顕著に出てきており、IT技術の発展に法律が追い付かない事態が発生している。だが道義主義に基づく法では大雑把な犯罪の規定になっているために、技術の進歩は関係なくなる。つまり時代に翻弄されない本質的・普遍的な規定になっているために、犯罪要件が成立するのである。

  犯罪の悪意性については重要な量刑判断になる。犯罪を、①悪意が最初から明らかに認められる場合・②悪の誘惑に駆られて犯したばあい・③悪意は無かったが過失によって犯罪が成立した場合(過失責任)に大きく分ければ、①が最も大きな量刑となることは道理であり、③は犯罪者の反省度によって量刑が大きく左右される。たとえば、自分の過失であるのに他者に責任を押し付けたりするような場合には、①と同程度の量刑になる場合もあるだろう。犯行現場などにおいて逮捕する際に、言い逃れや抵抗を示した場合も量刑は重くなる。つまり過失を素直に認めて、賠償に誠意が見られれば刑は軽くなる

  犯罪の賠償というものについては、大まかに、①罪に対する賠償(社会への賠償)・②被害者への賠償・③公共物損害に対しての賠償・④犯罪に伴って発生する人的社会負担(警察・救助隊などの人件費)がある。罪に対する賠償とは、社会に対する賠償と同じことであり、社会に対して責任を取るということを意味する。これは一般的には刑事犯罪での過料に値する。未来社会では刑事犯罪と民事犯罪の区別をしないので、1つの事件で2つの裁判が行われるということは無くなる。被害者への賠償については物的・金銭的損害への賠償と精神的苦痛への賠償がある。後者については被害者の苦痛度は測れないため、客観的基準を設ける。名誉棄損罪などがこれに該当するだろう(20.11.20「朝日新聞に名誉というものがあったのか?」)。その場合、被害者の社会的地位・人格点・不名誉がもたらされた範囲・その程度、などが基準となる。

  遡及原則に話しを戻そう。これは事例で示した方が分かりやすいので、いくつか事例を示したい
  1.ある人が自分の車で他人の家の塀を擦ってしまったとしよう。この場合は明らかに犯罪が発生したわけであるが、立件するほどのことではない。そのため犯人は誰も見ていなかったことからそのまま逃走した。被害は加害者にも被害者にも双方に生じたのであるため、もし犯人が後から後悔して被害者に申し出て賠償をしたいと言ったならば、これは立件対象にはならず、犯罪にもならない。示談で済むことである。だが放置して後から犯罪が立証された場合、これは犯罪となる。だがその場合でも、加害者が真摯に対応し、謝罪をした上で賠償を申し出れば、被害者が警察に届け出るかどうかで立件されるかどうかが決まる。ただし、被害者が法外な弁償を要求することもあり得るので、未来世界では被害者の無分別な訴訟を抑えるために、訴訟を起こした方にも起こされた方にも人格点の減点という措置をする。そして法外な要求をされて困った加害者が逆に訴訟に及んだ場合には、訴訟に勝てば(49%以下の犯罪性)人格点の減点は最小限度で済むが、負けた場合は基準の倍の減点となる。
  2.山に登って遭難した人のことを考えてみよう。未来社会では娯楽のための旅行・登山などは抑制されるため、山に登るという行為自体が何か社会的貢献の為でない限り、好感を持たれない。遭難が準備不足の場合はなおさらであり、それは救助の必要が出た場合、社会的責任が問われることになる。すなわち、上記に述べた過失責任に該当し、犯罪と言っても良いものとなる。だがこれを犯罪とするのは世間の常識から言っても過酷になるので、過失事故扱いとする。勿論人格点の減点だけでなく、救助隊の費用・警察の人件費が重くのしかかり、おそらく状況によって異なるが、1人の遭難で数百万円から数千万円の賠償が必要となるであろう。怪我を負って生涯動けないような事態になれば、一生をフイにしてしまうことになる。興味本位の山登りは未来世界では基本的に禁止されていると考えた方が良い。
  3.最近のオレオレ詐欺を考えてみよう。ある老人が電話によるオレオレ詐欺に引っ掛かり、100万円を詐取されたとする。これは上記①の故意・計画的犯罪であるから重罪となる。もし犯人が逮捕された場合、この犯罪者には10年の重労働刑と人格点20点の減点、そして詐取された100万円の2倍の被害者への賠償、および警察人件費(警察官5名×10日)100万円の合計200万円の賠償が請求される。もし犯人に支払い能力が無ければ、所有財産から賄われ、それでも足りなければ両親(存在すればという仮定)に請求が回る。これは本項の議論外の話であるが、「責任親族遡及の原則」というものを想定しているからである。だがまだこの考え方に関しては可能性は絶対ではないことはお断りしておく。実際に犯罪を減らす大きな効果が期待できるが、それがより悲惨な状況をもたらす可能性がないとは言えないからである。この考え方があると、親は子をしっかり育てないと自分にその災いを招くことから、養育段階から丁寧・真摯に育てることになるだろう。検討の余地は十分にあると考える。
  4.ある犯罪者が犯した40年前の犯罪(たとえば殺人)が40年後に明らかになったとしよう。未来社会では時効というものがないため、この段階で犯罪者は逮捕され、裁判に懸けられる。仮に現時点での判決が20年の刑であったとした場合、40年間の時間経過は賠償責任を軽減させることになる。つまり40年間、余罪も犯さずに真面目に働いてきたとすれば、犯罪者自身がその犯罪で十分重荷を負ってきたと判断されるからである。これを「量刑の時間低減の原則」と呼んでおこう。それによって≪基準量刑÷経過年数≫という計算によって、半年の刑に減刑させることができるというのは道理に適っているであろう。既に年齢も60歳以上であろうから、その量刑で十分ということになる。だが基準刑が10年であり、経過年数が10年の場合は量刑は1年に縮まる。これは更生の可能性が与えられたことになり、また妥当な量刑であると思われる。

  その他いろいろ検討しなければならないことが山積みであるが、犯罪についても量刑についても固定的な考え方を排し、常識的で道理的な結論が得られるまであらゆる方法を模索することが必要である。そして重要なことは、犯罪というものを法が裁けなかったり、時効によって犯罪それ自体を存在しなくしてしまうような矛盾・不条理だけはあってはならないと考えるのである。


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