本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

犯罪の定義

2021-04-04
  ウィキペディアによると犯罪の定義というものは、「法によって禁じられ刑罰が科される事実・行為をいう」とある。だが未来世界においては罪刑法定主義から罪刑道理主義の考えに変わるため、法の規定が無くても「道理的にみて犯罪」と社会が認めれば犯罪となる。この考え方が妥当かどうかを検証する。法律用語には疎いため、筆者独自の用語を用いることがある。考え方を述べるのであって、具体的な事例は不完全なものになる可能性が高いため、必ずしもこだわる必要はない。

  人間社会が法を定めたのは集落を形成した頃であろうが、文字として記されて残っている最も古いものは紀元前2100年の頃のメソポタミアのウル・ナンム法典であるとされており、有名なハンムラビ法典はその後の紀元前1750頃にバビロニア(メソポタミアにあった王国で現在のイラクのバグダッドの南方)で作られたとされ、世界で2番目に古い法典である。これにより中東から法治主義の考え方が生まれたことが分かる。おもしろいことに最も平和で繁栄した時代が作られた日本の江戸時代には成文法というものが無かった。もっぱら「お触れ」という高札に掲げられた文言で用が足りたのである。その違いには、社会に良識というものがどれだけ定着しているかの差が見られる。

  だが掟を文言で表すとなると、あらゆる犯罪というものについてあらゆるケースを取り上げることになり、現代日本の「六法全書」と言われるものでも6600ページを超えるらしい。憲法・民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法を含んでいるが、その他を加えるとどの位の量になるか知らない。しかも、それでも新しい時代になってIT関連で全く人類が経験したことのない事象が出現し、それに対応する法がないことから様々な齟齬が生まれている。それは時には不条理ともなっている。またこれだけ法文がたくさんあると、それを比較したり関連を把握するのも難しくなり、人間の解釈では様々な解釈を生み出してしまうという矛盾も出てきた(3.17「同性婚訴訟判決」)。その事例はあまたあるが、法律家はそれらに矛盾があることを知りつつ、自分達の職を守るためにその矛盾を明らかにしようとはしない。

  アメリカは法律主義の典型であり、弁護士が非常に強い権力を持っている。三権分立の原則の中の司法を担当しているという強い意識がそこにはあり、またアメリカの三権はそれぞれが主張をぶつけ合う仕組みであり、競争意識がそこにある(20.9.16「競争はいつ芽生え、何をもたらしたか? 」参照)。有能と言われる弁護士が高額の報酬を得るのも、その裁判結果によって企業が得る利益や被る損害が莫大だからである。ちなみに最近の事例を挙げれば、南カリフォルニア大学の勤務産婦人科医が犯した猥褻行為に対し、いくつかの集団訴訟が起きたが、大学は示談でこれを解決しようとしたためか、700人に対して1200億円を支払うことになった(21.4.1「」参照)。告訴した側もされた大学および医師もそれぞれ優秀な弁護士を雇ったのであろうが、その報酬もまた莫大なものとなる。尤も、全面敗訴した側は報酬を払う必要はないとされている。土地取引での不動産屋に支払う報酬は一般に取引価格の1~3%程度であると思うが、弁護士の報酬が獲得賠償額の何%なのか調べたが分からない。およそ10%程度だとすると上記例では弁護士は120億円を得たのかもしれない。

  このような法外で非常識な賠償というものがアメリカで時々話題になるが、それが成り立つという社会はどう考えても異常である。すなわちアメリカには合理という概念はあっても道理という概念が全く欠けているのである。また弁護士の能力によって獲得賠償額が大きく変動するというのもおかしなことであり、本来は客観的に自動的に算出されるべき筋合いであろう。その意味で未来社会では司法に大幅にAI判断を取り入れ、裁判官や弁護士という無駄な費用の元になる職業を大幅に減らす。そうすれば告訴側も無駄な費用を払わずに済むことになる。逆に中国のような独裁国家では人権弁護士(筆者は人道弁護士と呼びたい)は非常に力が弱く、ほとんどが役人や警察の意向で物事が決まり、時には袖の下という汚職が行われることになる。これもAIを使うことによって汚職の機会は激減するであろう。

  また前記したように、明らかに不正な犯罪に該当すると思われる事案であっても、それに該当する法令が無ければ犯罪とはなり得ない。その意味で法律主義は諸悪を見逃している可能性も高い。さらに各国の法律の扱いが異なるため、A国では犯罪とされることが、B国では無罪とされてしまうということはしばしばある。これらの弊害を取り除き、本来の犯罪を網羅して取り締まることができるのが道理主義の考え方であり、その適用の仕方が適切であれば、明らかに法律主義よりも道理主義の方が優れているということになる。以下では道理主義に基づいた考え方を、できるだけ具体的に事例を挙げて双方を比較してみたい。

 1.道理主義では原則論のみ法文として記述し、個々の事例については常識や道理を以て判断する。これは法文を可能な限り簡略にするためである。上記した江戸時代の「高札」に似ており、法令集は現在の1/100程度の厚さになるだろう。たとえば、「人は他者の所有物を無断で使用・盗取・詐取してはならない」という一文だけで、多数の犯罪に適用できるであろう。あとは状況からその量刑を判断すればよいだけになる。悪意なく無断使用した場合には常識的に犯罪にはならないが、後で謝意・謝礼がなければ犯罪になり得る。これも常識で判断する。

 2.常識や道理については総合AIの判断を1次審査として採用し、その結論に告訴人と被告が同意できない場合のみ、2次審査として調停が設けられ、それでも納得できない場合は裁判となる:これは審理を効率的にすることや経費を最小にすること、そして審理時間を短縮するためである。人間の判断は調停・裁判という2段階で下され、それはその者の価値判断に影響を受ける。

 3.上訴する場合はその責任が重くなる。すなわち敗訴した場合の賠償、または量刑が大きくなる。

 4.犯罪の量刑は全て最高量刑を100とする責任割合で決められる。たとえば告訴人に責任が10%、被告に責任が90%と判断された場合、告訴人にも金銭による賠償が科せられる。被告の場合は拘束刑(留置刑)と賠償刑の両方が科される可能性がある。たとえば職場で明らかな不正を見つけた場合、それを通報した場合の裁判では、検察が告訴人となるため、通報が道理に適っていると判断された場合には通報人に何の咎もない。通報人は人格点引き上げによって報われる。

 5.裁判では地方審・最高審の2段階方式を取る。現代の3段階方式を短縮する。上訴審では被告の罪刑は2倍に引き上げられる。たとえば

 6.最高審(現在の最高裁判所)での結果には、5年後に再審が可能である。だがその益を受ける者には相当の覚悟が必要であり、再び有罪とされた場合は賠償・量刑が2倍に増やされる。これは近年に冤罪の事例が多く出ていることによる。時代の変化による価値観の変化ということや新証拠の提出などが考えられる。

 7.告訴人も被告も訴訟が生じた時点で人格点が5%引き下げられる。その割合は裁定・裁判の結果に比例するため、最終的な判決が出ないと引き下げ幅は決定されない。これは訴訟というものは最後の手段であり、双方に応分の責任を取らせるためであり、ゲーム理論の応用でもある。これはむやみに訴訟が起こされるのを防ぐ効果を狙った考え方である。たとえばどんなに正しい告訴であったとしても、それを訴えるには覚悟が必要だということを意味する。昔の武士は上司や領主に諫言するときには切腹を覚悟した。武士道とはそうした自己犠牲を前提にした正義の実現の考え方に立っており、ノム思想もこの考え方を採用する(20.9.1「武士道精神とは何か?」参照)。但し、自己を犠牲にして正しい訴訟を起こして勝訴した場合には、その者は社会から高く評価され、結果的に人格点が大きく引き上げられる。

  これらの他にも、陪審員裁判についてだとか、検討しなければならないことは山ほどあるが、紙幅の関係からここまでで検討を終わらせる。テーマの「犯罪の定義」という点については十分議論できたと思うし、読者にも筆者の考え方は伝わったと思う。


  
TOPへ戻る