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【時事評論2021】

未来の法律

2021-11-06
  一服していて、動物などに無益な殺生(せっしょう)を禁じた江戸時代前期の第5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令を思い出した。この法律の素晴らしいところは、短い法令の中に人の在るべき心を入れたことである。しかも解釈次第では動物だけでなく、人も生類に入ることから、人への殺傷も禁じていると解釈可能である(江戸時代には特に「犬」を大事にするようにとのお触れ=法律と解釈された)。現代の法体系には、こうした人の心を問題にするような条文はないのだろう。それは法の概念が西欧から伝わってきたことが最大の理由であり、江戸時代の道理や哲学に基づく法の考え方がまるで異なるからであろう。そうしたことを考えているうちに、未来の法の在り方はどうあるべきかを模索した。そして道理主義に基づく法はできるだけ簡素で覚えやすく、かつ道理でいか様にも解釈が拡大できるものが望ましいと考えた。以下に具体的にその例を示してみたい。

  たとえば、上記の殺生については、「生類はいたずらに殺傷することを禁ず」と表現すれば良いのではないか。未来の法は原則を述べるだけであり、どういう場合にどのように適用するかは人の常識・道理によって判断される重大な案件ではAIが判定役にも加わるが、最終的には裁判官が判断を決する。この「生類憐みの令」の事例で具体的な事例を上げれば、子どもがカエルをいたぶったことが公に知られた場合、それは現代では問題とされないが、未来世界では子どもの心の中に生物に対する優しい心がないこと、不必要な殺傷を行ったこと、子どもの将来に懸念が生ずること、などの理由から、小さなことではあるが罪と定められる。だがその罪に対する人間界の対応としては、親だけでなく先生という公的指導員が子どもの心に傷を残さないように大義を説いて善導すること、そして子どもの人格点から少し減点する、という措置で済ませる。またこの行動をメディアが問題として実名入りで取り上げることを禁じる。このようにして「少年A」のような事件は未然に防げるであろう。

  西欧の法体系というものは、上から目線のものとなっており、権威者(=権力者)にとってどれだけ脅威であるかによって刑罰が決められた。そのため民間での窃盗事件や強姦事件などは比較的軽く扱われた。もし刑罰を厳しくしたら、それこそ監獄がいくつあっても足りないことになり、社会的効率の面から言っても不合理である。そのため西欧の法体系では犯した罪の大きさを相対的に比較して量刑の体系も決めた(20.4.11「法律主義の欠陥・平時と戦時」・20.7.29「日本の介護裁判判決にみる法律主義の破綻 」)。そこには動機という心的要因を量刑に反映させることは少なかった(20.2.2「トランプ弾劾に見る法律主義の機能不全」)。また一律適用の原則から、たとえば人を1人殺せば懲役何年というように、大まかな基準が存在する。だが未来世界の法は心的動機を最も重視し、状況によって量刑判断は大きく異なる。つまり同情する余地があるかないかが非常に大きな要素になる。人間として許せないような非情な心によって犯された犯罪は、当然のことであるが量刑も厳しいものとなる。そして改悛が不可能と見定められた場合には、容易に社会からの追放という極刑が課されることになるだろう。

  未来の法律は刑法・民法以外にも道徳法のようなものがあり、行動や犯行の心的動機の善悪を問うことになる(20.8.12「未来の司法制度」)。それに応じて刑罰は大きな幅があり、刑法規定には刑罰(量刑基準)は通常明記されない刑罰は人々の常識や道理で十分判断できると考える。たとえば最近起きた車内刺傷事件(10月31日)を裁くとしたら、彼の動機をまず裁く。彼は死刑になるように多人数を殺傷しようとした。人混みの増えるハロウィーンを狙い、しかも逃れにくくするために特急を選んだ。計画的犯行であることから、動機だけを判断すれば追放に該当する。彼自身もそれを望んでいることから、判断は容易となる。さらに未来の犯罪では社会への影響の大きさをも量刑判断に加えるため、今回は相当国民に恐怖感を与えたことからこれも追放に該当する。被害は重症者1名、怪我人8名だそうで、重症者は女性で7箇所を刺されたという。弱いものを対象にしたという点でも情状酌量の余地はない。従来刑では懲役20年位に相当するのだろうが、ノムの(未来を想定した)判断では社会追放(死刑に相当)が妥当だと思われる。

  最後に改めてまとめをしておきたい。未来の法律は非常に簡素なものとなり、個別事案を規定せず、その心的動機の邪悪性に応じた量刑を常識と道理から判断することになる(20.11.27「権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ」)判例というものは存在せず、各地で同じような事件が起きたとしても、状況が異なることから量刑も当然異なるのが当たり前となる(1.18「状況理論」)。その動機の邪悪性は、①被告が生きるために最低限の罪を犯したのか、それとも社会に害悪を与えることを企図して犯したのか・②犯罪に計画性があるか、それとも衝動的・突発的に犯したものか・③集団で計画的に練られた犯罪であるかどうか、などによって判断される。昔、イタリア映画に「自転車泥棒」というものがあった。貧しい家庭で父親が出来心から自転車を盗んでしまうというストーリーである。結末は忘れたが、このような犯罪は更生を重点にした軽い処罰となるだろう。逆に少年Aのような犯罪は、たとえ少年であろうとなかろうと、犯した罪の心的状況が社会として許せる範囲のものではないことから、裁判は簡潔に社会放逐の判断を下すだろう。未来の裁定には「心神喪失」という概念はない。また時効という概念もない。時間の経過した事件は、現在の犯人の状況が大きく評価されるため、一般的に大幅に軽くなる傾向にあるだろう(20.11.13「恩赦は法制度の腐敗 」)未来の法律や法体系は従来の西欧型のものとは全く異なり、むしろ江戸時代の大岡裁きに象徴されるような、人々を納得させるものとなるだろう(6.16「道理論と法律論)。


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