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【時事評論2020】

日本の介護裁判判決にみる法律主義の破綻

2020-07-29
  日本では昨日の7月28日に介護関連裁判の判決が出た。2013(平成25)年に長野県安曇野(あずみの)市の特別養護老人ホーム「あずみの里」で起きた事故に関する裁判であり、嚥下障害で亡くなった85歳の女性の遺族が准看護師女性(60)を業務上過失致死罪で訴え、一審の長野県地裁松本支部裁判所は、「女性がドーナツにより窒息して死亡したのは、これを給仕した准看護師が、ドーナツがゼリー系に変更されていなかったことの確認を怠ったからだ」として、罰金20万円の有罪判決を下していた。被告は控訴し、27万筆の同情署名を集めて長野高裁での二審に臨んだ。高裁は被告に責任はないとして、28日に逆転無罪を言い渡した。
 
  ニュースなどから知り得た情報によると、被告は介助を親切心から手伝っただけであり、介護現場でそれは善意の行動と評価される。死亡した女性の年齢から考えてもいつ嚥下障害を起こしてもおかしくない状況であり、これは単なる事故であった。だが現代の司法制度では遺族から訴えを起こされたらこれを却下することは難しく、裁判に及ぶことは珍しくない。だが一審の地裁が有罪と判断したことは、国内に衝撃を与えた。一般市民の常識からしてもおかしな判決であり、特に介護現場の職員らからは「怖くて介護などできない」との悲鳴が上がった。どうしてこのような非常識な判決を下したのか理由は分からないが、現代の裁判というものの矛盾・不条理を露見したことだけは確かである。
 
  そもそも判決が有罪から無罪へと180度転換するということ自体がおかしいことである(2.2「トランプ弾劾に見る法律主義の機能不全」・4.11「法律主義の欠陥・平時と戦時」参照)ゼロと100のどちらかしか判断できないというのは自然界ではあり得ない。その中間というものを考えるべきであり、確率判断が最適である。ノムはしばしばこの問題を取り上げてきたが、ノム思想では状況論・確率論を非常に重要視しており、事象は状況によって確率的に起こると理解するため、事故や事件も確率的に評価しなければならないと言い続けてきた。裁判も被告に対してその責任度や影響度から完全無罪から何%有罪という範囲で判決を下すべきである。それは現行司法制度に何ら影響を与えるものではなく、ただ裁量に幅を持たせるだけのことで済む。
 
  今回は高裁がより高い見地から無罪を言い渡したのは妥当であり、裁判官の見識を評価したい。だがいつまでこのような前時代的裁判が延々と行われるのかというノムの怒りは収まっていない。この裁判に相応しくない事案が裁判という方法を採らざるを得なかった事情、裁判で7年もの長きに亘って被告が味わってきた屈辱のことを考えると、単純に喜んで済ませるわけにはいかない。現代の司法制度を根底から考え直すには、司法に携わる関係者がその思考を根元から変える必要がある。その意味で司法試験というものが、思考を固定化(イデオロギー化)しているのではないかと危惧する。昔中国で「科挙」試験が、優秀な者を選抜するという本来の意図からはずれて社会構造の固定化を招いたように、現代では国民すら裁判制度に疑問を抱くということが無くなってしまった。ノムの説く道理主義」の観点に立てば、このような矛盾はすぐに分かるはずなのである。
 
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