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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2024】

自制思想

2024-04-22
  人間が社会的存在であるかぎり、個々の人々は自制を強いられる。孤島に住む一人の人間は全ての縛りから自由であり、何をしても責任を問われることはないが、社会に住む限り、社会的縛りに従わなければならない。それは法律だけでなく、諸々の社会的慣習や道理、そして常識をも含むだろう。だが昨今、日本のメディアは「個性を伸ばそう・束縛からの自由を求めよう・多様性を重んじよう」という論調によって、こうした縛りを不自由の根拠だとして排除しようとしてきた。だがその結果として起こっている価値観の多様化は、もはや国民の中に「常識」と言われるものは無くなったかのような状況を生み出している。そして欲望も無制限に掻き立てられ、あらゆる挑戦・冒険・試行が善なるものだと吹聴されるようになった。だがそれは結果的に、全世界で豊かさを求める叶わない願望を生み出し、不必要な競争による摩擦を生み出してきた。そして行きつくところは、地球温暖化という自然現象の変更をもたらした(20.11.23「地球温暖化と動物窒息死の問題」)

  人間が地球という半ば閉ざされた空間の中で生きる限り、自然界で起こっている宇宙とのエネルギーバランスや、生命界で起こっている生存競争や生態系バランスを崩すことは許されないはずである。もしそのケジメを失い、欲望のままにしたい放題なことをすれば、やがてエネルギーバランスが崩れ、地球の大気圏や水圏で温暖化が起こることは科学的にも自明なこととなっている。そこで人間活動には適切な範囲というものがあり、それを超えてはならないという教訓が生まれるそれをノムは「自制思想」と呼ぶことにした。つまり人間は好き勝手に振る舞うことでエネルギーを消費することは許されないということになる。だがそうした思想が現代には無いため、結果的に世界は地球温暖化によって報いを受けることになるだろう。以下では、人間には自制思想が必要である根拠を述べるとともに、未来世界では制御思想によってエネルギーバランスをとることは可能であることを述べたい。

  本ブログでは以前に「制御思想」という言葉について説明した(21.1.7「制御思想」)これは人間社会全体が持つべき思想という意味合いで使った言葉であるが、今回は個々の人間がその考え方や行動において、慎み深さが必要であるという意味合いから、「自制思想」という言葉を使うことにした。日本では古来から「慎み・謙譲」は美徳とされ、今でもその感覚は日本人にはよく理解されているが、世界的にみればこれはごく稀な文化であるとも言えよう。世界では競争が第一になっており、勝者=善、という概念が当たり前になっている。それは自然界の摂理であり、動物界の摂理でもあるが、人間界ではもっと進化した思想が必要であり、実際に人間はそうしたより高徳な文明を目指してきた。そして日本はそれをかなり昔から体現してきたとノムは評価している。自画自賛のようにも思われてしまうかもしれないが、日本人の謙遜的な行動を見れば、それはよく分かることだと思われる。

  だが日本も何度もこうした美徳を忘れて傲慢になったことがあった。日中戦争に始まる大東亜戦争もその1つであった。世界一の国家である米国に戦争という挑戦をしたのもその1つであった。戦後の高度成長からは「公害」ももたらした。バブル時には米国のロックフェラービルを買い取るという暴挙に出た。そして今、同じことをUSスチール買収ということで行おうとしている。それは国家の過ちであったかもしれないが、日本国民としては必ずしもそうした傲慢な心を持っていたわけではない。事実、日本人の行動を見れば分かるように、生活のあらゆる場面で、謙遜・謙譲・慎みが見られる。それは時に、外国人には理解しがたいほどであることもある。

  世界的に見れば、人々は何よりもまずカネを求める。カネを得たら地位を求める。地位を得たら名誉を求める。それが人間の生の姿であることは論証する必要もないことであろう。そのため世界は競争に明け暮れている。その原理は「自国第一・国益第一」という考え方に支えられている。それは思想と呼べるようなものではないが、人間本能に根差しているために、誰もが当たり前に当然だと思うようになっている。だが、人間界には、そうした利得を離れて、他者のために生きた人々もわずかだがいる。そうした人を世界は「偉人」として尊敬するが、尊崇することは少ない。他者に尽くすためには、自己を滅する必要があり、そうした偉人は意識せずともそうした「自制自棄(「筆者造語」参照)を自然に行うことができる。仏教ではこうした心的状況を「悟り」と表現しているのかもしれない。それは現代でもあり得ることであり、ノムはそれを「自制思想」と表現するのである。

  自制思想は人間の持つ生存本能に反するように見えるが、ある意味では生存本能に基づいているとも言える。動物は危機に遭遇した場合、危機から逃れようとするか、危機に対して挑戦するか、という二者択一を迫られる。多くの場合には挑戦はしてみるが、負けると悟った場合には退却する。そしてその方が生存確率を高めることに繋がるのである。人間も同じであり、危機に対して無理やり抗ったり、攻撃を仕掛けたりするよりは、そっと退いた方が生存確率が上がる。だが人間界の倫理では、そうした危機に対して退却を選ぶのは「卑怯」だとされている。果敢に戦いを挑むのが人間らしい行動だとされ、英雄はそうした思考の下に生まれる(21.1.30「英雄論」)。だが自然界の異変が危機を生み出しているとされる今日の問題では、科学技術によってこの異変を止めようとするのは無理であり、人間は静かにその行動を改めるべきであろう。すなわち自然の脅威に対しては、退くのが最も賢明な方法であろうと思うのである。

  個々の人間についても同様のことが言える。あらゆる事象に対して、傲慢に振る舞ってはいけないのである。それは結果的に自分自身を損ねる場合の方が多い。一時的には勝利を収めることはできるが、一生を見ると自分を損ねていると判断される場合の方が多いのではないだろうか。仏教ではそうした傲慢な心の持ちようを戒めており、極めて哲学的に正しいと思われる。同時に、周囲との調和を努力すれば、より良い結果をもたらすことができるだろう。

  自制思想はあらゆる学問からその正しさを論証することができる。上記したように、本能論からも正しさを証明できるだろうし、自然生態系論やエネルギー論からも証明できると考えている(21.11.14「自然生態系と人工生態系」・21.11.18「本能論」・24.3.31「エネルギー論」)。言ってみれば、調和論や共生論から出てくる帰結ではあるが、他の分野の学問からもその正しさは証明できると考える(23.8.22「競争から共生へ」)。未来世界ではノムAIがそれを証明してくれるだろう(21.4.6「ノムAIの提言」)

  自制思想の中身はどんなものになるのだろうか。古来からの「謙譲の美徳」も当然その中に含まれるが、もっと進んで言えば、より高い視点から個人的に価値というものを見直すことで、より高尚でより賢い自制の仕方を学ぶことができるだろう。欲しがらない・競争しない」ということを自然体で実行できるならば、それは自らの心の中に、すでに自制思想が完成されていると考えることができる。もし未来世界の人々が、そうした高みに心の在り様を持っていくことができたとしたならば、世の中から自然と争いは少なくなるだろう。だが戦争だけは、世界が統一されなければ無くすことはできないことだけは、理解しておく必要があるだろう(21.7.4「戦争論」)。そのことが実現するには、人間がより知的に進化している必要があり、ノムはホモ・サピエンスがネオ・サピエンスに進化したときにそれが実現されると考えている(21.4.8「ホモ・サピエンスからネオ・サピエンスへの進化」)

(3.22起案・4.21起筆・終筆・掲載・4.22追記)


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