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【時事評論2021】

英雄論(4705文字)

2021-01-30
  先だって中国において、炭鉱事故で救出された人達22人が英雄視されたという記事があった。だがこれは中国独特のプロパガンダであるにしても、非常に違和感のあることである。単に事故に遭って生き残っただけの話であるのに、なぜ英雄にまでに祭り上げられることになるのか、そこには中国の人民鼓舞というプロパガンダ政策、または思想があるからなのであろう。同様な問題は尖閣問題において日本が妥協したことで釈放された中国漁船の船長にも当てはまる(衝突事件発生は2010年9月7日)。船長が航空機で本国に戻ったのは、2010年9月27日だった。打ち上げ花火とブラスバンドの出迎えがあり、まさに英雄としての待遇だった。このような英雄の祭り上げは歴史上あまたあり、テーマとするには余りにもバカバカしいことが多いのだが、それがまた人間の本質であることを前項(1.29「韓国の一青年の死に想う」参照)から気が付いたことでこのテーマを取り上げることにした。

  英雄はしばしば独裁的・権威主義的政府によって作られるものである。また民がそれを求めるという人間の本能的背景もある。民主国家でもこの現象はしばしば見られる。トランプ大統領の支持者というのは冷静な判断力を失った過去の繁栄の妄想にすがる人達であり、彼らはトランプを正に英雄として奉った。それは神を信じるほどに強烈な信仰に近い。言ってみればトランプの中に「偉大なアメリカ」という偶像を見たのである。そしてこれらの虚構にまみれた英雄の挫折と偶像崇拝の崩壊は非常に早い

  中国の船長の話に戻ろう。彼には帰国直後、事件発生から3ヶ月後に日本のメディアがインタヴュー取材をしている。その際彼は、日本の取り調べについて強烈に不満を述べ、自分の行動を正当化した。さらに「共産党は強いから、最後には釈放されたんだ」とまで言い切った。その場に地元役員や武装警察官が現れ、取材は中断された。その時点で彼は事実上の軟禁状態にあったようで、漁には出られていなかった。その後当局は不都合があったと見たようであり、彼を拘束した。11月4日に衝突の録画がネットに拡散したからであろう。その後の彼のニュースについては知らない。逆に日本では動画を投稿した氏名不詳の「sengoku38」が英雄視された。そしてこの日本の英雄もまた、当局の調べで自衛官であることが判明したのち、いつの間にか話題から遠のいていった。

  旧ソ連で英雄として持ち上げられたのがガガーリン少佐であった。余りにも有名な話であるが、事例として取り上げてみよう。彼が宇宙飛行士に抜擢されたのは、彼の出自にあったという。 彼はコルホーズの労働者である両親から生まれ、「労働者階級の英雄」というプロパガンダに乗せられて世界の英雄として喧伝された。だがその最後は悲劇的であったと言われる。1961年にガガーリンはボストーク宇宙飛行船で世界初の有人宇宙飛行に成功した。宇宙船からガガーリンは「地球は青かった」という有名な言葉を語ったというが、それは嘘であり当局のでっち上げだという。ソ連は当初はガガーリンが宇宙船と共に着陸したと世界に発信したが実はそれも嘘であり、実際には大気圏内で座席ごとカプセルから射出してパラシュートで降下させるという極めて危険な着陸であった。当時のフルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めたミサイル力増強計画の成果を示すものであった。全て国家の威信を賭けたプロパガンダだったのである。だがその嘘のプロパガンダは彼を苦しめ、徐々に精神的に弱り、酒を飲むようになった。宇宙に飛んだのと同じ1961年には自傷行為(自殺未遂)を起こした。その翌年の1962年には来日して英雄として大歓迎されている。しかし1964年にフルシチョフは突如解任され、ソ連はブレジネフ率いる集団指導体制に入った。その結果ソ連での宇宙開発は遅滞し、最初のソユーズ宇宙船・ソユーズ1号が、ガガーリンなどによって問題点が203ヵ所も指摘され延期を進言されていたにも拘らず、試験飛行が1度も成功しないまま1967年に見切り発射されて死亡事故を起こしてしまった。それはソ連当局がロシア革命50周年の記念すべき年のメーデーでその偉業を世界に示したいと考えたからであると言われる。そのときガガーリンの親友でもあったウラジーミル・コマロフが死亡した。そこでガガーリンは10ページに及ぶメモをまとめ、KGBの一番の親友ラシャエフに渡した。だがそれは上層に渡ることなく、メモを見た人間は、ラシャエフはじめ全員が降格・辞職させられるか、シベリアに飛ばされたという。ソユーズが出発の日を迎えた時、ガガーリンは「自分が乗る」と言いだし、コマロフをかばったということがその場に居た記者らに目撃されている。コマロフ自身もこの飛行で死ぬことを知っていたという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡し、世界で最初の宇宙事故の犠牲者となった。恐らくこのことはガガーリンに大きな精神的打撃を与えたことだろう。ガガーリンは自分が英雄とされたのは利用された結果であることを悟ったに違いない。彼の生活は再び荒れ、手が付けられなくなったという。1968年、彼は教官とともに搭乗したミグ戦闘機で飛行中、墜落事故を起こして死亡した。享年34歳であった。その死には陰謀説もある。ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していたアレクセイ・レオーノフは事故原因の当局による公式見解を否定し、またガガーリンの証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことを明かしている。この事例は、ガガーリンが国家により英雄に祭り上げられ、その矛盾に気付いた本人を国家が抹殺したという典型的パターンに相当するのかもしれない。

  中国ではもっとひどい事例もある。2016年8月1日に中国人民解放軍創設89周年にメディアが事故で亡くなったパイロットを一斉にメディアが英雄として祭り上げたのである。それも4月27日のかなり前の事故であった。空母着艦を予想した地上訓練をしていた少佐(29歳)が着陸直後に電子系統が故障し、機首が急激に上がって離陸してしまった。脱出装置を作動させたが地上近くであったためパラシュートが十分に開かないまま地上に激突し、死亡したのである。故障判明から脱出まで4.4 秒間であったという。これは本来なら単なる事故報道となるはずであり、しかも民主主義国ならば故障を起こした空母艦載機の殱(J-15)戦闘機の設計に問題があるのではないかと指摘されるところであり、またこの事故を空母建造に合わせた運用確立を急いだ結果の事故と観る向きもある。だがそのような反省記事は無く、全く反対の英雄称賛記事へと変更されたのである。人民日報は1面トップでパイロットが「懸命に機体を救おうとした」(見ていたような嘘)と称賛し、新華社通信も「なぜそんなに勇敢なのか」と題する記事を配信した。事故の状況を推察すれば、勇敢かどうかは全く関係のないことであり、パイロットは単に自分の命を救おうと懸命に4.4 秒間対処したに過ぎない。これは事故の責任を隠蔽するためと、国威発揚に該当する事例が見当たらないために記念日の記事としてパイロットを偶像化して英雄に仕立て上げようとした茶番にすぎない。

  事例は他にもあまたあるが、本質論に戻りたい。人は誰でも英雄(ヒーロー:hero)に憧れ尊崇の念を抱く。それは多分人間が持つ本能なのであり、群れを作り、社会を作って生きてきた人間の性(さが)なのであろう。そして英雄はいつの時代にも存在し、それはときに伝説となり、偶像化されていく。偉人や宗教的教祖もその範疇にあり、その姿は美化され、装飾化されていった。現在のように記録手段の多くなかった昔は、部下や弟子が語る英雄の姿は唯一の証拠として真実化され、後代はそれを脚色する。人々はそれをわかっていたとしても英雄に対するカリスマ性を感じ、その姿に対する畏敬の念を覚えるのである。そして今日においても一般的に過去の英雄と呼ばれる人々は、歴史の検証を経てなおその栄誉を受けるに相応しい者として生き残ったのである。英雄というものはそんな極めて人間的な感情の発露から生まれた偶像であるが、それが不思議に理屈なしに共感を覚えるのは人間心理を考える上で実に興味深いことである。

  英雄をどう定義するかによって、むやみに英雄を作り上げる弊害を避けることができるであろう。筆者の考えでは、①長期的条件・②国民が称賛する良い成果、③人間的・民族的共感が著しく高い、の3点が最低でも必要だと思われる。たとえば筆者の尊崇する二宮尊徳はこの3つの要件を満たしており、戦前・戦中を問わず、永遠に英雄として奉られるのは当然である。個人的人気の高い映画俳優・歌手・タレント・スポーツ選手・芸術家などは日本では誰も英雄だとは言わない。この定義を使えば、前項に挙げた韓国人留学生による救助行為は瞬間的なものであり、良い結果を残していないことから英雄とは言えない。

  また英雄の登場する場について考えると、それは歴史・神話・物語、そして国家である。歴史上の英雄には華がある。虚像であってもあるいは悪徳があっても英雄と言われる場合が多い。明智光秀は当時の儒教的臣従関係を破った謀反人として数段も低く評価されてきたが、織田信長という傑出した天才の狂気を止めた英雄と見ることもできる。歴史における英雄は視点と民族の違いで全く異なる評価となるであろう。神話はその国にだけ通用する英雄を生み出す。物語での英雄は虚像として成立する。最も問題が多いのは国家がプロパガンダ政策として作り出す英雄である。ガガーリンだけでなく、多くの虚飾に満ちた英雄が歴史的にも現在も存在する。カルロス・ゴーンは日本では犯罪者扱いであるが、レバノンでは一時的にせよ英雄扱いされた。これは「場(国)」の違いによる。

  日本には「国民栄誉賞」という表彰制度があり、それなりの成果を上げた人を表彰している。それはそれで十分意義のあることであるが、なぜか羽生弓弦が候補にすら上がっていない。彼ほど日本人として立派な精神を持ち、自国文化を誇りにしている若者は他に滅多に見当たらず、しかも長期に亘って世界一の偉業を成し遂げてきているのに、なぜだろう。多くの立派なスポーツ選手がいる中で、彼は傑出している。その態度といい、発言といい、正に日本人の誇りである。筆者の個人的な意見であるが、彼を英雄と呼ぶことにためらいはない。

  結論をまとめたい。英雄という存在は人間が創る社会において必要不可欠なものとも言える。社会の形成過程において常に英雄が存在してきたことがその証拠となるだろう。そして英雄は人間が持つ知的本能から生み出された幻想であるということもできる。だがその幻想はしばしば人間の心の中にある弱さを鼓舞する作用をもたらしてきた。特に戦時などの非常時にはそれが顕著である。だが平時にも国家によってプロパガンダとして作り出される英雄というものがあり、そのような不必要で有害な英雄を作り出そうとする国家に対しては警戒しなければならない。それは国家が健全化どうかを図るバロメーターにもなり得る。近年は概ね世界は平時の状態にあるが、その中で「英雄」という言葉を聞いたとき、それが捏造されたものか、本当のものかを見分ける力を持ちたいものである。



  
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