【時事評論2021】
適者生存の原理・弱肉強食の原理
2021-12-23
現代の日本で「適者生存の原理」や「弱肉強食の原理」を説くほど馬鹿げた発想は無いと大方の人は思われるかもしれない。だが筆者の思いでは、人間が最高度の繁栄を遂げた現世紀に滅びの途に入ることが分かっていることから、これからこれらの原理を思い知らされることが想像される。人間の歴史を振り返ってみれば、わずか数十万年前にホモサピエンスとして人間は独立種として固定されたが、それ以後も各種人種として進化を遂げてきた。生命の進化がおよそ1~100万年という年月にわたって種の固定化を維持できることを考えると、ホモサピエンスの寿命はまだ続くという可能性は残されているが、あいにく人間は自らの知能の進化によって自縄呪縛に陥り、寿命を短命化しようとしている。それを考えると、進化を踏まえたこれらの原理を改めて考えておくことは無駄ではないと思われる。
言うまでもなく、「適者生存の原理」は、自然界の生物にとって生存に有利な資質を持ち、環境に適応できた個体が生存し続ける優位性を持つ、という意味である。また「弱肉強食の原理」とは、生物界の「食物連鎖」の意味と、同じ種間では(たとえば人間という種や動物種)、強いものが弱いものを食するという読んで字のごとくの意味を持つ。しばしば人間界での闘争にも当てはめられる。
これらの原理はもともと自然界の原理であるが、人間界にも古代ではそのまま適用できただろう。だが人間界で社会的・政治的仕組みが整うようになって、必ずしもこれら原理があてはまらなくなった。弱者保護の観点から諸法律で弱者が守られるようになったからである。そして現代は弱者が最も恩恵を受けることが可能な時代となった。だがそれはここ数十年に成就したことであり、その結果というわけではないが、人間は余りに多くの資源を使い過ぎたために、環境を破壊するに至った。大量生産・大量消費がその原因とも言えるが、まさにそれが可能になったことで、弱者も恩恵に与ることができた。その状況がいつまでも続けられるわけもなく、環境が破綻したことで人間はまた古代と同様に適者生存の原理と弱肉強食の原理に晒されるようになってきている。それは各種紛争による難民や、経済格差による貧困に表れている。
ではこれからさらにひどくなる弱者の状況とはどういうものになるのであろうか。それは国家による救済が届かなくなることで、蓄財のない貧困層や災害に遭った国民に最初に悲惨な状況が訪れるだろう。韓国では一部の都市で不動産価格が上昇し、若者は住まいを確保するだけに汲々として結婚を考えるゆとりを無くした。蓄財をするよりも投資にカネを回し、それが外れたときには生活保護者とならざるを得ないだろう。欧米でも蓄財をしないために、給与が入らなくなる事態が発生すると、とたんに生活に窮する。米予算が議会を通らず、公務員に給与が支払われなくなったとたんに窮乏者が発生したのもこれが原因である。人間のサバイバル時代には蓄財ということが生存の可能性を大きくすることは間違いない(20.4.23「ストック経済は有効か?」・21.1.21「衰退期のサバイバル術」)。日本人は災害の多い国であるためもあって、普段から蓄財に余念がない。そのためコロナ禍に遭ってもなんとか暴動が起こらずに済んでいる。
人間社会では「適者」の意味が自然界とは異なる。人間界では、①地位が高い・②蓄財を持つ・③智恵がある、などが生存条件を有利にする。同様に「弱肉強食」の意味も異なる。「弱肉」は「弱者」を意味し、「強食」は「力の強い者が支配する」ことを意味する。当然のこととして強者の生存確率が高い。だが直近の将来では反って強者が狙われる可能性が高くなり、強者の命は保証されないかもしれない。テロなどの頻発で強者の優位性はなくなりつつある。特にドローン攻撃はその脅威を大きくしている(21.9.22「AI兵器の脅威・中国のドローン偵察攻撃機 」)。だがやはり圧倒的に弱者が被害を受ける確率は依然として大きく、自己防衛策として自分の置かれている状況を考えて最善の策を取って備えることが肝要である。
未来世界では人類全体を共同運命体として考えるが、ここでも以上の2つの原理は残ることだろう。それは特に国家に表れる。強い国家はより賢い人々から成るため、あらゆる事態に適切な対処を取ることができる。弱い国家は人材の不足から適切な対処が取れず、愚衆が多いために混乱が起こり、ついには暴動に至る(9.26「愚民論 」)。そのような制御不能国家は自己崩壊の途を辿り、世界はこうした自己崩壊国家を支援することすらできない(6.9「自己組織化と自己崩壊化 」)。アフガンが正に現代に於ける自己崩壊国家であり、すでに7割の国民が飢餓に直面している。未来世界では自己責任原則から、自己崩壊国家の運命を救う努力に限界があることを知っており、その運命のなせるままに放置せざるを得ないのである(12.4「自己責任 」)。すなわち上記2つの原理はやはり生きているのである。 (12.24追記)