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【時事評論2021】

自己責任

2021-12-04
  人間はあくまでも自然界の一生物にしか過ぎない存在であるが、人々は現代生活に慣れ切ってしまって、人間界が世界であると誤解してしまっている。そのため、イデオロギー(自由・平等・人権)が自然界の掟であるかのように思い違いをしており、自分の不幸や不運を人のせいにしたり、国家のせいにしたりするのが常となっている。政治的不満が暴動に発展するのは愚民が為せる業であるが、それを扇動する組織があることを忘れてはならない(9.26「愚民論 」・11.30「なぜ人々はヒトラーを選んだか? 」)人は自分の生き方に自己責任を負っているはずであり、自分の不幸は自分が蒔いた種によってもらたらされているということを考えるべきである。

  戦争や災害によってもたらされる災厄は運命の為せる業であるが、これを防ぐことは不可能だと断言することはできない戦争を回避するように政治的に動いた国は、多くの点で損失も多いだろうが、最大の損失である戦争を回避できれば、その結果は良とすべきだろう。だが世界が競争原理の下にある限り、どの国も発展を望んでおり、その結果として生ずる戦争という事態を避けることは難しい。災害もこれまた同様であり、全く安全な場所というものも無ければ、災害を防ぐ手段というものもない。災害は確率的なものであり、人類はその確率を上げてしまっている(6.13「確率論 」)それもまた自己責任ということに帰することができるだろう。だが戦争や災害はその人個人だけに結果がもたらされるわけではなく、多くの地域の人や国家の国民にもたらされる。自己責任が及ぼす影響というものは予想以上に広く深いのである。

  分かりやすい例えを使ってみよう。筆者は歯の手入れをよくする方だと思うが、毎食後の歯間ブラシ使用と、歯垢を感じたら歯を磨くという手入れだけで10年以上も歯医者に行っていない。もし虫歯や歯槽膿漏になったら、それは自業自得だと考えている。すなわち自己責任の範囲の問題である。歯の手入れは義務だとかいう問題ではなく、自己管理の問題である。それは無意識に自然に行われることが好ましい。同様に周辺の雑草を取るというボランティア的作業も、そうしたいからしているのであって義務ではない。だがそうすることでいつも気分よく暮らせる。これは自分だけに関わることではなくなり、周辺の人にも良い環境を与えることになる。さらに道路をボランティア的に補修するという作業も、市のメンテナンスの頻度を減らすと考えればさらに広域的な意義を持つ。さらに拡大して、一日一善を心がければ、その影響範囲はさらに拡大するだろう。もし個人のこうした行為が積みあがれば、世の中からぎすぎすした雰囲気が無くなり、平和にも貢献することになる。

  どこまでが自己責任の範囲か、という問題は、こうした善意の心がけによって意味が無くなると思われる。すなわち、法的・規律的・道徳的なものの考え方を乗り越えて、人としてのあるべき姿を求めれば、それは自然と自己責任を果たしていることになるということである。一見平和活動とは関係がないような日常的行為が、世に平和をもたらす一要素となっているということはよく見られることである。そうした平民的で平凡な生活が、自己責任を全うしているという事例は山ほどあるであろう。自己責任という概念は決して法律的理解をしてはならない。勿論法的に自己責任が問われることもあることは確かであるが、人間として道理に適ったことをしていれば、それは十分に自己責任を果たしているということになるであろう。

  逆に自己益を求めるような行為は、世では出世・繁栄としてもてはやされる結果を得ることができるかもしれないが、それは犠牲をどこかにもたらしている可能性を考えなければならない。例えば出世をした人がいる代わりに、出世を逃した人もいる。繁栄をした人もいる代わりに、貧窮を味わっているひともいるだろう。人類にそれを当てはめた場合人類の繁栄の代価は地球環境の急激な変化であった。それが人類を滅ぼす可能性が高いことは、一部の人は既に認識し始めている。これは言葉を換えれば、人間が自己に与えられた自然管理という責任を放棄し、自然を破壊してまで繁栄を謳歌しようとしたツケである。自己責任というものはかなり高度な精神活動から得られる認識であり、それを自覚している人は相当レベルの高い人であろう。だが多くの人は自己責任を自覚する前に、事態の不都合を他者に責任を負わせているそれは改善という次の行動を生み出さないために、結局は自業自得となって自分にツケが回ってくることになる。


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