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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

愚民論

2021-09-26
  前項で、「国民・大衆というものは、最も利己的で愚かな存在である」と書いた。かなりひどい人間の価値を貶めるような表現であるが、これは筆者が環境問題を考えてきた中で得た結論である。すでに未公開論文として、「良民と悪民(賢衆・賢民と愚衆・愚民)」(12.9.15)・「民意」(14.5.12)・「民度」(14.6.20)・「人間論」(17.2.4)・「民主主義の破綻」(17.8.05)・「民の声」(19.8.31)、等を書いてきた。その中で強調してきたのは、自然に対する人間の愚かなまでの暴略であり、搾取であった。そしてその原因が、人間の生存本能にあるため、現在のところ改善の余地はないことも示した。人間のこの愚かさを封じ込めて正しく制御するには、賢人による強圧的な単一政府が必要であるという結論も導き出したが、それは未来という先の話になる(21.1.7
制御思想」)。本項ではその論拠としてきた民の愚かさの根拠について検証してみたい(21.5.29「民の不満と政府の対応」)

  その前に、一応事前調査として同じような議論があるのかどうかを確認してみた。「衆愚政治」・「愚民思想」・「愚民政策」・「愚民化政策」・「愚民論」・「愚民社会」・「愚民政治」、などの言葉があったが、どれも筆者の言わんとしている主旨とは異なり、民を擁護する論調であった。筆者の場合、「民」という存在は、そもそもが愚かにならざるを得ない状況に置かれており、それを主体にした「民主主義」は誤りである、という主張であり、世界で最も異端で強烈な主張であることが分かるであろう。筆者もそれは重々自覚しているが、敢えて民を敵にしてでも真実は書かなければならないという使命感を持っている(20.10.4「人間本能の階層構造」)

  人が集団を作り始めると、それを統率するために組織というものが生じた(6.9「自己組織化と自己崩壊化 」)。そしてそのリーダーは時に祭司・首長・王と呼ばれて絶対的な権力を持つようになる(20.9.14「トップリーダーの選択 」)。そのリーダーが集団を統率しようとする時、一番の問題は掟に従わない外れ者(アウトサイダー)の存在であったろう。教育における「教室崩壊」という現象は、1人の教師の下で30人の生徒の中に3人の規律に従わない児童がいると起こるとされる。同様に群れが100人の規模であるならば、10人も外れ者がいたら群れは統率できなくなるであろう。その割合は群れによって異なるが、アリの集団では「2:6:2」の法則があると言われる。人間の集団にもこの割合を当てはめた例があるが、それが妥当かどうかは分からない。だが外れ者が2割もいたら、集団は統率できないであろう。

  アリの世界での2:6:2の法則をどう解釈するかが問題であると思われる。2割のアリはよく働き、6割のアリは普通に働き、2割はサボっているというものであるが、筆者はこのサボり2割は予備役兵と同じで、何らかの役割があるのではないかと考えている。つまりいざという時の備えであると思っている。人間界でも同じような割合であるかどうかもはっきりとは分かっていない。分かっているのは1つの集団では、必ず外れ者がいるということであり、社会全体を優良な民だけにしようとしても、それは不可能であるということである。ヒトラーがユダヤ人を排除してアーリア人だけの世界を作ろうとしたが、それは可能かもしれないが、アーリア人が優秀だとは限らず、ましてや優秀な者だけを残すことに成功したとしても、やがてその中の一定の割合が外れ者になるということを意味する。

  生物集団というものにそうした法則があることから、社会性動物である人間を統率するには、そうした外れ者に対する配慮が必要なことが分かる。恐らく最善なのは、そうした外れ者には比較的自由な立場なりを与えて、自助努力により一生懸命に働かざるを得ない状況を作り出すことだろう。平等主義という考え方は、この法則が有効である限り破綻しているということになる(20.7.16「自由主義と民主主義の破綻 」・20.11.4「米国大統領選挙に見る民主主義の破綻」)。「適材適所」という言葉もあることから分かるように、人はその持ち分に応じて扱いを変えた方が良いのである。だが社会はそれほど柔軟性に富んでいるわけではないことから、どうしても法律による一律管理が優先されてしまう。この矛盾から逃れるためには、社会を道理で管理することが必要になるだろう(20.11.27「権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ」)

  現代社会は、人間が歴史上最も自由を謳歌している時代であるとも言える。人権が法律で保障され、少なくとも日本ではどんな意見を述べても投獄されることはない。職業も能力に応じて自由に選択でき、好きな食べ物を食べることもできる。だがその自由度が最大になったことで弊害も多く表れてきた。その最たるものが愚者である愚民による社会の不安定化である。特にネット社会はこの傾向を著しく促進させた。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命は、一人の若者が焼身自殺を遂げたニュースがネットで広がり、瞬く間に全土にデモが発生して革命が起きた。さらにそれはアラブ世界に波及し、「アラブの春」と呼ばれる革命の連鎖を引き起こした。だがそれは大衆の不満から生じたものであったが故に民主化は根付かなかったと言われ、成功した国は無い。反って以前よりひどい状況にある国々も多いという。

  これから分かることは、自分のことしか考えていない利己的で愚かな大衆が国家の体制に変革をもたらした場合、そこには混乱・無秩序・暴力・経済破綻が生まれるということである。やはり国家は知性に溢れた人々によって、秩序を以て統制されなければならないことは自明のことであろう。アフガンでは暴力による2度目の宗教革命が起こったが、彼らの頭の中には旧態依然たる原理主義しかなく、国家を作ってもそれを現実的にどう統治するかという考えなど毛頭持っていなかった。多数の利己的集団である部族を統率することは不可能であることも自明の理である。いずれ内戦状況に陥るであろう。25日にはアフリカのコンゴでワクチンに対する誤った情報により、住民がワクチン接種に集まらないため支援されたCOVACワクチンの大半を返還したというニュースがあった。これも愚民故に起こったことである。大衆はいつも、政府の意図的なプロパガンダに騙され、ネット上のフェイクに翻弄される。それは大衆が知性を働かすことなく、情報に惑わされるからである。多くの戦争は国民(多くの場合愚民)の支持があって初めて起こされるものであることを、歴史から学ばなければならない。

  最も安定した政権というものは、ローマ帝国や日本に見ることができる。古代ローマでは知的集団による議論と決議によって皇帝を中心にした絶対権威による統治が行われた。日本では神話に基づく皇族が建国以来一貫して絶対権威として存在し「神の国」と呼ばれているが、その神には必ずしも武力や権力は無かった。いわば精神的支柱として別に立てられた権力から崇められてきたのである。大東亜戦争(太平洋戦争)後にアメリカにより支配されて、西欧流の民主主義が根付いたが、それでも皇室の権威は大きいと認めざるを得ない。現在は国民統合の象徴とされている。こうした安定した政権では必ず知性による制御が働いており、未来世界ではそれが最高度に進化した「賢人政治」が行われることになるだろう(1.7「制御思想」)。それは最も安定した長期政権(指導者である賢人らは入れ替わっていく)となるであろう。

  歴史を俯瞰すれば、特定の思想や個人により大衆が扇動されて侵略的性格を持つ国家や帝国が長く続いてきた。ローマ帝国もその一つと言えるが、ローマはその経済的根拠を失ったために衰亡し、ついに崩壊した。崩壊していないのは日本だけということになる。日本の国家としての歴史はそれほど長いとは言えず、2千数百年程度であるとされるが、その間皇室の権威がずっと維持されてきたということは、人間界の奇跡である。それは人間界では、如何に精神的支柱というものが重要であるかということを如実に表している。現代の世界のほとんどの国家群はそれらを失い、建国の理念を維持しているのはたかだか数十年から数百年に過ぎない。その間、政治体制はころころ変わり、その度に大きな犠牲が払われてきた。現代に必要なものは、世界的、いやもっと大きく捉えれば人類的な精神的支柱なのであり、それはノム思想以外にはないであろうと思われる。

  ノム世界では人格点制度による階級制が取られることになる。すなわち人格の優れた人ほど多くの権利や恵みを受けることができ、人格の低い人は最低限の人間生活は保障されるが、自由度は極めて低くなる。それは明確な階級というものではないが、人格によるピラミッド構造を呈することになる。現代の表現で言えば差別主義的であるが、ノム思想では差別は当然無ければならないものとして理解される。人間界に於ける差別は法律上では無いことになっているが、実際には能力・適性・人柄などによって差別は歴然としてあり、それもまた当然なことである。ノム世界では最大の価値は人格点にあり、社会的地位はこれでほぼ決まる。議員や社長などは人格点が高くなければなれないことになり、社長は才覚さえあれば誰でもなることができるが、社長の人格が低ければ社格も低く評価される。ノム世界では規制は思うほど多くは無いが、全てが評価対象になるため、評価でその価値が決まることになる。

  ノム世界に於ける民というものは、ピラミッド構造における中層・下層民を指すことになるが、民全てが評価されることにより人格点が決まり、それに応じて得られる権利や優遇も異なる。民は努力すればその人格点を引き上げることができ、上記した下層の2割の人間も努力せずにはいられなくなるであろう。だがそれでも努力すらしない民が存在することは2:6:2の法則から予想されることから、下層2割の民に対してはそれなりの社会的善導が必要となるだろう。民の間には階級意識はほとんど無く、誰もが対等に自分の意見を言うことができる。だがそれもまた評価対象となることは覚悟しておかなければならない。たとえば人格点が高い人が低い人を軽蔑したとすれば、それは刑罰の対象にはならないが当然の結果として人格点の低下に結びつくことになる。

  そうしたノム世界では愚民という言葉すら無くなるであろう。愚かさは民の持つ普遍的な属性ではなくなるからである。個々の人間の愚かさという概念は残るであろうが、民であるから愚かであるという論理は通用しなくなるであろう。たとえ愚かさを発揮した人がいたとしても、それは階層ゆえに断定されることではなくなり、その人個人の問題とされるようになるからである。(22.5.8追記)


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