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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

生活必需品

2021-12-27
  前項で「温暖化防止手法」の一つとして生活様式の変革を挙げた(12.26「温暖化防止手法の評価 」)。そこで考えたのは、人間が必要とする生活必需品には何があり、それはどの位の量必要なのか、という問題であった。これは以前から考えてきたことであるが、これまでテーマとして取り上げたことはなかった。別論文で2017年に「必要と不必要」(№912:9053文字) というテーマを取り上げたことはあるが、それも参考にして改めて生活必需品について考えてみたいと思う。

  人間は生物として最低限、水と食料を必要とする。さらに動物として生殖の相手を必要とするが、これは必ずしも生きていく上では必要のないものである。人間として考えた場合には、現実的に住まいと仕事が必要であり、人間が必要物をカネで購入することから、ある程度の現金・資産も必要となる。さらに現代生活では車も必需品の1つになっており、それが無くても生きてはいけるが、利便性という点では欠かすことができない。高齢になって運転免許を返上したような場合には、その有難さがしみじみ分かるであろう。これらの「人間の必要」というもの自体が進化してきた、と観ることができる(6.8「新・進化論 」)

  必需品というものについて理解するために、概念的にならないように具体的にそれを挙げてみた。そしてそれを表にまとめてみたが、評価項目にデータが分からないために評価できない項目も多く、不完全な形でしか読者の方々に提供できないことは申し訳なく思う。これらについては未来世界の研究が生活主体のものに移行することで、物品のライフアセスメント(製造されてから廃棄されるまでの環境影響評価) の研究として推進されて明らかになってくるであろう。とりあえず未完成のままであるが、以下のリンクを参照してもらいたい。


  生活必需品というものを考える場合、①生存に必要なもの・②文明生活に必要なもの・③精神的安寧を得るために必要なもの、という順に考えるべきだろう。そして必要以上のものは贅沢品として位置付けるべきである。社会はより上位に位置する人間に贅沢を許してきた。だがそれが極端になった場合には、庶民感情がそれを許さないということも事実である。すなわち、一律に贅沢を禁止するのではなく、社会貢献が大きい人に対しては、義務を果たした権利としてある程度の贅沢を許すべきである。

  表から分かることは、先進国の人間が如何に多くの人が無駄で贅沢な生活をしているかということであろう。その贅沢を、生存限界に近づければ地球環境問題というもののほとんどは解決されてしまうかもしれない。あるいは人口を減らして無駄を省けば、そこそこ文明的な生活を維持できるかもしれない。現在までのところ、そうした視点で試算が行われたということを聞いたことがない。科学者らはもっぱら二酸化炭素の問題だけに専念しているように見える。もっと基本的なことから研究を積み上げるべきであろう。残念ながら素人の立場のノムには表の ⑥・⑦ の物品生産に要する必要資源量やエネルギー量のデータが全く分からない。それらの数値が算出されているのかも知らない。表はあくまでも考えてもらうための提案でしかなく、これを研究者が埋めてくれるように願うのみである。

  人間が最低限必要な食料がどの位なのかということを大雑把に概算すると、食料では1人当たり1年間の消費穀物標準量は180kgとされているため、80歳まで生きれば約14トンは必要ということになる。2020年の世界統計の予想によれば、穀物としては27億6000万トンが生産されているそうだ。これだけで153億人が養える計算になる。だが無駄がおよそ30~50%近くに上るとの試算もあることや、実際に78億人が現存していることを考えると、無駄がおよそ40%に及んでいると推察しても構わないのではないだろうか。他の穀物や穀物以外の食品を加えると、無駄はもっと多くなるだろう。体重を標準体重(身長の2乗×22)に保つために最低限必要な食料を算出し、そこから生涯に必要な食料を計算すれば人が必要とする食料量が推算できるのではないかと考えるが、①生産過程・②加工過程・③運送過程・③販売過程・④消費過程で避けられない無駄をなんとか20%以内に収めたいものである。

  人は生涯に1軒の家を建てると仮定すると、その建築に要する資材が20~40年以内に廃棄されることになる。実際には東京では25年に全ての家屋とビルが更新されているという報道を耳にしたことがあるが、これが大いなる無駄に繋がっているのではないかと懸念している。筆者の田園都市構想では500年以上の耐久性を持つコンクリート構造の家屋をリフォームしながら使うことを考えており、数百年に1度の割合でこれを埋めて地下室として利用し、その上に新たに増設するというサンゴ方式で高くしていくことを提案しているが、それは年間単価で計算すると驚くほど安く済むことになる(2.9「田園都市構想」)。数千万円の家を30年で有利子償却するか、数億円の家を300年で無利子償却するかは利子の問題を除いても同じであり、もし未来社会の経済が実現した場合、国庫からの住宅資金融資が無利子で行えるようになれば、少しずつではあるがこのようなシェルター構造の家屋が増えていき、数千年先には地下構造都市が可能となるだろう。そして地上は農地と山林による緑の楽園となるだろう。だがこの構想では環境維持のために人口は20億人に限定することを提案していることを付け加えておく(10.29「人口爆発の脅威 」)。莫大なコンクリートを生産するための資源は豊富であり、必要なエネルギーは当面は石油を使うにしても、将来は太陽由来の電気エネルギーで生産できる技術が発明されるかもしれない。あるいはローマンコンクリートが開発されればエネルギー問題もかなり節約できることになる(12.26「温暖化防止手法の評価 」)。筆者が提案するシェルター構想や田園都市構想は未来の話であるが、それを今から予測しておくことには大きなる価値があるはずである(7.17「水害地に環境シェルターの設置を! 」)

  筆者が人が生きる上で最低限必要な物資・エネルギーを試算したいと思ったのは、この地球上にどの位の人口が生存可能かどうかを知りたかったからである。環境を破壊せずに動植物とできるだけ共存を可能にして、なおかつ人類が快適にかつ慎ましく生活して存在の継続を続けていくためには、現代のような欲しいままの資源の略奪やエネルギーの放漫な使い方はできるはずもなく、それをどこまで節約して使えば存在の継続(「持続的成長」では決してない)が可能なのかを探りたいと真剣に考えている。勿論そのためには現代や未来の技術を最大限駆使して効率の良い方法を編み出していくべきであるが、それだけでは人間は満足はできないだろう。人間が質素な生活に満足するには、より大きな価値を持つものを追求しなければならず、それを人間が智慧を以て追求していけば、自ずと精神的充足が最も効率の良い物質節約的なものであることに気付くだろう。そのためには生存する全ての人々が高等な教育を受け、環境との共存という思想で啓蒙され、自分自身から精神の高みへと向上していかなければならない

  新世界の世界システムや各国の社会システムを考える上で、これが最も重要な目標となるだろう。そしてそれを具現化する上で、人が必要とする資源(物資・エネルギー)がどの程度なのかを知ることは具現化のための第一歩となる。必要が分かれば地球の人口規模が推算でき、生活レベルも規定できるであろう。その必要には生産から消費までの各段階で避けられない無駄も含む。そしてその無駄を最小限に抑えていくことが、必要資源の節約にとって最大の効果をもたらす。無駄をそのまま放置して必要量から生産規模をはじき出すのは愚策であり、深い智慧がない。未来の新人類は全ての要素を加味して最善の方法を編み出すだろうが、そのためにはAIが最大限応用されるだろう。限定されたデータだけを参照して特定の理論に基づいて計算された「必要量」の数値よりも、AIが多種多様なデータを基に総合的に判断した数値の方が信頼性が高いと言われる時代がもうすぐ目の前に来ている。我々はそのような数値を基に最善の策をあらゆる部門を総動員して考案していかなければならないのである。

  以上の議論をまとめると、人が生きていく上で必要な最低限度の物資(衣食住・エネルギー)がどの程度なのかは、生活の仕方で大きく変わる。現代の都市生活のパターンと農村生活のパターンの両方の特質(得失)を勘案して、未来社会では全ての人が何らかの形で自然と接し向き合う暮らし方をしていくべきであろう。そうしなければ自然の有難さも必要性も分からないからである。もし都市生活者と農村生活者の間に経験や考え方の違いから意見の分断が起こるとしたら、それは相互に不必要な対立をもたらすだろう。それを避ける意味でも都市生活者は農村に近づく、農村生活者は都市に近づかなければならない。未来の「シェルター構想」や「田園都市構想」はそのためにもおおいに貢献するであろうし、また資源の節約に最大限貢献するだろう。それとともに人一人当たりの必要最低限の物資量を計算し、それを目安として示すことによって、自分が如何に無駄な生活をしているか、それが如何に有難いことかを知ることができ、人が自分の生き方を再考する良い機会が与えられるだろう。


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