本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2023】

「大義・中義・小義」論

2023-03-30
  「大義」については既に論じた項がある(21.5.26「WHOの台湾排除に大義はない」・21.8.21「「大義」論」・22.8.1「正義と大義」)。最近、友人と畑の脇で3時間に及ぶ議論をした際、以前から考えてきたことであるが、「大義・中義・小義」という概念を説明したところ、非常に納得してもらえたような感じを受けた。そこでこの論を中心に今回は論じてみることにした。

  結論から先に述べると、「大義」は世界レベル・地球レベルの視点から出てくる義のことであり、「中義」は国家レベル・組織レベルの視点から出てくる義のことであり、「小義」は個人レベルの義のことである。恐らくこの定義による「中義・小義」という言葉は日本語には無いと思われる。そのためこの言葉はノムの造語ということになる。「大義」については上記「大義・論」で述べているので、細かい説明は省略する。

  よくメディアでは「戦争の大義」という言葉を使う。たとえばプーチン戦争でも「ウクライナのロシア人同胞をまもるため、という大義をプーチンが唱えている」と説明されるが、ノムの考えでは、プーチンの唱えている義は「中義」であり、もっと突っ込んで言えば、プーチンの名誉欲のための「小義」による戦争であると考える(22.3.21「プーチン戦争に学ぶ教訓」)。そのため、ノムはウクライナを主戦場に行われているロシアによる侵略戦争を、「ウクライナ戦争」とは呼ばない。こう呼ぶことで、まるでウクライナが起こした戦争のように勘違いされる可能性があるからである。少なくとも後世の人はそうした勘違いをする可能性があると云えよう。たとえば「ナポレオン戦争」という名称があるが、これはナポレオンが起こした一連の戦争の総称として使われる。その意味では「プーチン戦争」も、後世において、グルジア(現在の「ジョージア」)・オセアチア・クリミアでプーチンが起こした一連の戦争の総称を指すようになるかもしれない。

  国家の指導者や議員の意見を、この「大義・中義・小義」の観点から評価すると、非常に理解しやすくなる。現在のところ、プーチンの述べている言葉の全てが小義・中義に立っていることは明白であり、米欧がそれに対して大義論を述べていることも明白である。つまりプーチンの主張には道理がない。「他国に住む同胞を守る」という理由をこじつければ、どんな国に対しても戦争を起こせるということになってしまうであろう。事実ヒトラーはそれを口実にした。同じ「ナチズム」を標榜しているプーチンには道理がないのである(22.10.29「プーチンとヒトラーの同根異相」)

  大義・中義・小義を比較すれば、大義に優位性があることは勿論であり、その意味で物事には大義が必要ということになる。地球環境問題は大義のある解決しなければならない問題であり、国家の都合を優先しようとしている世界の状況は中義を主張しており、それは悪であることは明白である。つまりこの場合の「悪」の意味は、人類にとって不幸をもたらすという意味になる。戦争は「悪」であるというのは大義論に則った主張であり、それは正しい。だが戦争が起こるような世界システムの現状自体が悪であるからこそ、戦争は期せずして起こってしまうのである。戦争を無くすことが最善なことであるとすれば、世界を1つにまとめることが最優先されなければならないはずである(21.3.28「世界連邦の可能性」)。そしてその目標は大義であると断言できる。

  政治や外交の世界ではほとんどの場合、大義論は語られない。国家の利益が最優先され、米国はそれを「国益」と称し、中国はそれを「核心的利益」と称している。どちらも中義を主張しているにすぎない。オバマ大統領が「核無き世界」を唱えてノーベル平和賞を得たが、彼の最大の間違いは、それを現在の世界で実現しようと主張したことにある。現実の世界では核無き世界ほど危うい状況はないからである。テロリストでさえ製造できる核兵器が、あちこちに生まれたのでは、世界は破壊されるだろう。大国の核兵器が抑止力になってきたのは事実であるが、ソ連のフルシチョフによるキューバ危機やプーチン戦争がその概念を無力にした。もはやどんな力も組織も核戦争を止めることはできない。それは必然過程となっている(22.6.30「人類史から観た第三次世界大戦の必然性」・22.11.12「核戦争のAI化と自動化」)

  もし人類が大義を求めるなら、それは人類にとっても地球にとっても良いものでなければならない。それは決して理想論ではなく、人類が現実的に悲劇を味わうことで理解されるものなのである。これまで人類は高い理想を掲げて繁栄を求めてきた。それは部分的には実現したが、その繁栄が地球環境を破壊しているという現実を知った。それで繁栄にブレーキを掛けようと試みているが、現在の人間界の思想・制度・システムではそれを止めることができないことは自明の理であり、制御思想を持たなければ不可能である(21.1.7「制御思想」)。そして制御を可能にするには世界は1つにまとまらなければならないのである。第二次世界大戦後にはそうした思想が不完全ながらも科学者らによって提唱されたが、現実の政治・外交によって踏み潰されてしまった。それは科学者らが提唱した「世界政府」という概念が、各国に主権を持たせたまま実現しようとしたところに間違いがあった(20.12.26「主権論」)。主権があちこちにあるのでは、そこに競争が生まれ、争いが起こり、結局1つにまとまることなどできる訳もない。科学者がそこを見通すことができなかったのは残念なことである。米国の1人の女性(エメリー・リーブス)だけがそのことを見通した。だがその業績は忘れ去られようとしている(21.3.28「世界連邦の可能性」)


TOPへ戻る