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【時事評論2021】

「大義」論

2021-08-21
  前々項の「太平洋戦争は避けられたか?」を執筆中、筆者がしばしば使う大義」という言葉に違和感なり、疑問を持つ人がいるのではないかと考えた。この言葉を使う度にそう思っていたが、現代日本の多くの人は戦中までの日本の政治家や軍人がよく使ったこの言葉にかなり強い違和感を抱くと思われた。筆者の意図はそういうものではなく、「より高い義」という意味で使っており、そのことを明確にしなければならないと考えた。そこで「大義論」という項を立上げ、その中で大義とは何か?という疑問に対して答えたいと思ったのである。そしてそのことを考えるうちに、この大義というものは、思考の中のより高い次元の思考だという考えに辿り着いた。そのことについて詳しく説明していきたい。

  人間の思考というものは、本能的なレベルによってその価値が決まると筆者は考える。最も下賤で卑しいものは自己の生存本能に基づくものであり、それは自己保身の思考として表れる。ほとんどの人の思考はこれに基づいており、たとえば「今日は何を食べようか」という思考は生存本能に基づいていることは明らかであるが、他者に危害を加えるようなものではない。だが「彼をどうしようか」という人事に関わるような問題になると、これは他者の利害や自分の利害に関わってくるため、そこに保身の思考が出てくる。すなわち、自分にとって都合の良い選択が為される傾向がある。部下の中の誰を昇進させるかという人事問題ではそれが顕著に出るだろう。これにも2つの側面があり、人事的慣例に則った選択であれば波風が起こらないが、自分の気に入った人物を抜擢した場合に、それが慣例に沿ったものでないと周囲に波風が起こる。その抜擢が大局的視点に立つものであれば、中には納得する人もいるだろうが、自己保身から出た人事であるならば、かなり周囲に動揺と不安と嫌疑が巻き起こるだろう。

  権力者の人事というものが、独裁の場合には完全に権力者の自己保身によって行われるため、大義を損ねることになる。この場合の大義とは、より高い次元(視点)での道理を指す。たとえば組織にとってより良い結果が期待できる人事であるならば、それは権力者にとって都合の良い人事よりは高い次元の人事となり、さらに国家にとってより良い結果が期待できるならば、さらに高い次元での判断となる。もっと言えば、地球にとってより良い結果が期待できるならば、それは最高レベルでの判断ということになる。大義というものを、この判断レベルの高さというもので定義付けるならば、筆者が用いてきた大義の意味が明らかになるであろう。中国の習近平の人事や「汚職追放」の被疑者特定などをみていると、完全に自己保身と体制維持のために為されていることが分かる。他の独裁者の掲げる政策も、それが一見すると国民のためのものと思われるものも多いが、大義の観点からすると大義の無いものが多い。ブラジルのボルソナロ大統領のアマゾン開発政策は、ブラジルの発展とブラジル国民の大多数の生活向上には役立つものであるが、より高い次元の地球環境の保全という観点からすれば、暴挙であって自分勝手なものとしか思えない。すなわちボルソナロは世界からすると大義のない政策を掲げているということになる。

  こうした観点で明治維新を見てみると、その視点が、①日本という国家・②藩・③自分、のどこにあるかによって、それぞれの活躍した人物の大義が測られると思うのであり、多くの武士が③を振り捨て、①か②に重きを置いたことがよく見て取れる。最終的に明治維新が①を主体とした判断によってなされたことで大きな内戦に至らず、対抗する敵同士が譲歩を重ね、あるいは自分の考えを修正してより高いレベルの判断に至ったという、人間界としては極めて高い叡智を発揮したことが判るのである。これは未来世界で最も模範としたい事例であり、その意味でしばしば明治維新の歴史的経過を考察する上で、「大義」と言う言葉を多用してきた。それは前項でも述べた大東亜戦争でも同じであり、日本が単に自国の利益だけで動いたのならば、大義のない戦争であったが、少なくともアジアを欧米の侵略から守るという意志があったことは、大義があったという解釈ができるであろう。その大義は欧米諸国の侵略、ないしは経済的覇権の意図よりは遥かに高いレベルのものであった。これを中国に当てはめてみると、中国の国際規範無視や秩序の変更の企ては全て中国という国家の隆盛のためであり、国家生存本能そのものの表れである。そこに協調というものはなく、自国の論理しかない。以上に挙げた大義の定義からすると、中国には全く大義というものがないことになる。

  ここで「義」というものを改めて考えてみると、義であるかどうかは他者が判断することであり、自分で決めることではない。自分から唱える義というものは多くの場合偽善であり、その是非は歴史が判断することになる。大東亜戦争を最悪の侵略戦争と観る中国もあれば、筆者のようにアジアの守護という大義があったと考える人間もいる。現在は圧倒的に中国と同じ判断をしている国や人々が多いと思われるが、必ずや日本の義が評価される時代が来ると信じている。義には大義>中義>小義、のランクがあり、それは人類に関わることが最大の大義ということになり、人間世界に関わることはその次のレベルの大義ということになる。国家の義は中義のレベルと考えて良く、蒋介石も毛沢東も中義しか持ち得なかった。習近平は表向き中義を装っているが、彼の発想や行動を見ていると、それすら怪しいと見ており、自己の権力の拡大だけを志向するヒトラー以下の小義しか持っていないと思われる。アフガンを見捨てて外国に逃亡したガニ元大統領は最悪であるが、多くのリーダーが切羽詰まった状況で祖国を棄てる行為をしている。最高の大義を発揮したのは昭和天皇であったと筆者は考える。なぜならば、連合軍によって処刑されるかもしれない状況にありながら、天皇は国を棄てなかった。そして敵将のマッカーサーに自分から会いに行き、自分の身のことは捨て置いて国民の安寧を願い出たのである。そのような大義を行ったリーダーというものを歴史上他には滅多に見ることはできない。

  だが注意しなければならないことは、大義というものが必ずしも正しい選択を意味しないということである。ある国にとって大義があると見做される諸策も、より高い次元からすると否定されるからである。前例で述べたボルソナロの政策はそれに該当する。同様に中国の発展は、国内向けには、世界の抑圧への抵抗によって勝ち得たものであるという大義が中国の王毅外相などによって主張されているが、世界から観るとその野望性や横暴性から否定せざるを得ないものとなっており、まして中国の戦狼外交による口汚い罵りに満ちた文言は、道義的に許されるものではない。つまり世界から観れば、中国に大義はないということになる。振り返って日本が西欧列強により開国を迫られ、それに応じて明治維新を成し遂げて西欧列強に武力で対峙しようとしたことは、歴史的にも状況的にも大義のあることであり、その延長線上にある太平洋戦争(大東亜戦争)にも大義があったと言えるのである。なぜならば、それより高次の思考からすれば、西欧の植民地主義の方がよほど大義が無かったのであり、日本に開国を迫ったということなど、ましてや大義のかけらも無かったということなのである。

  西欧からしてみれば、鎖国状態ということが許せないものだという思考の前提があったとしても、「日本が鎖国状態で平和に暮らしていることがなぜ悪いのか」、という日本の主張に対して、道理のある返答をすることは出来なかったであろう。西欧のキリスト教的視点でみれば、東洋の小さな国(実は世界の大国であった)の蛮族をキリスト教化しなければならないという使命感があったかもしれないが、それも現代の信教の自由というより高いレベルの規範からすれば、傲慢そのものであって、実際西欧にはキリスト教布教という大義名分とともに武力侵略と経済支配を繰り返してきた歴史がある。現代ではキリスト教の衰退とともに布教の大義名分は失われたが、先進技術をテコとした経済支配の構図は続いている。中国がこれに真っ向から挑戦したのには、これに限って言えば道理があり大義があると言えよう。西欧の思考基準と他国の思考基準は同列のものであって、本来はどちらも尊重されなければ道理というものが成り立たない。だが力に勝る者の論理が上に立ってしまうというのが人間界の愚かさの特徴であり、従来の歴史はその愚かさによって成り立ってきたし、現在ではそれが逆に中国によって為されようとしている。すなわち大義のない中国が力により世界を支配しようとしているのである。

  未来世界では義や道理を重んじる(20.11.27「権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ」・6.16「道理論と法律論 」)。各国がそれぞれの義を唱えたとしても、どちらの主張がより大局的視点に立ち、道理に適っているかをAIが公平に判断し、どちらに大義があるかを示すことができるような時代が来るを期待している。利害関係を全く持たない第三者としての立場を持っているのはAIしかないからである。それは過去の歴史についても遡って判断が可能になるかもしれない。そうなれば、何度も繰り返すようであるが、「大東亜戦争には大義があった」ということが証明されるかもしれないのである。


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