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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

未来世界の精神文明と自己実現

2022-04-24
  前項では現代における精神文明の喪失と、未来世界での精神文明の復活について述べた(現代における精神文明の喪失)。だが後者については十分語り尽くしていないと思い、改めて未来世界の精神文明について追加したいと考えた。そして未来世界では人間が物質文明に見切りをつけ、生活の利便性よりも精神的充足を求めるようになり、それが引いては自分の求めるものを実現するという、自己実現に繋がると考える。そうした論を本項では展開してみたい。

  精神文明とは、物質的な豊かさよりも、あるいは利便性よりも、精神的満足度が重視される文明の形である(3.19「日本精神を壊す疑似生命尊重主義」)。それはある意味では「やせ我慢」・「自己満足」と取られるかもしれないが、自分が満足すること(自己満足)がなぜいけないのか、という反論を提起したい。現代は競争の社会であるため、自己満足は良くないことだと世間は評価し、「より高く・より早く・より強く」を是とする風潮が蔓延している(20.9.7「人間は「競争」、および「競争心」を克服できるか?」・20.9.16「競争はいつ芽生え、何をもたらしたか?」・21.1.31「良い競争と悪い競争」)。今日も隣に新居を構えた夫婦が挨拶に来たが、その両親とも話したところ、「何のお仕事をしておられたのですか?」という質問に対して、「大学に勤めておりました」というので、「教授をなさっていたのですか?」と誘導質問したところ、「いや、事務職です。総務部の部長まで務めました」という答えが反ってきた。最後の部分は予想外の答えであった。地位までは聞いていないからである。ご当人には自慢をする気はなかったのであろうが、自分の仕事に対する自負が強い人なのであろう。

  以前、病院に入院していた時のことであるが、古武士然とした老人が隣のベッドにいた。ほとんど話さない人であるが、奥様が見舞いに来た時のこと私が「どちらのご出身ですか?」と聞いたところ、奥様が一瞬答えに躊躇したあと、いきなり「一高・東大です」と答えた。これには筆者も当惑した。こちらは出身の県を尋ねたのであるが、勘違いして出身校だと思ったようである。これも別に自慢しようとしてそういう答えをしたのではないと思うが、潜在的にやはり誇り高い人なのであろうと思う。後で知ったが、癌の末期だったようで、相当衰弱していたが、ベッドの上に背筋を伸ばして毅然としていた姿が今でも思い出される。まことに古武士のようであった。

  こうした経験から考えると、人は出自や地位、時には豊かさを誇りに思っていると、ついそれが言葉や態度に表れてしまうものだと思わされる。ということは、この世では、出自・地位・カネに価値があるということを暗示している。出自は自分の努力とは関係のないことであり、地位を得ているということは体制に順応してきたからであり、金持ちであるということは、もしかしたら不正を働いたせいかもしれないということを想起させる。そしてそうした価値観を持っている人の多くは、自分が「自己実現できた」と確信しているように見受けられる。だがノムの視点から見ると、他者に対してどのような貢献をしたのか、社会に対してどのような貢献をしたのかが重要であり、筆者の言葉で言えば、どれだけ「自捨他助」を貫いたかが重要だと考えるため、そうした自捨他助を貫徹した人こそが、死に際に際しても本当の誇りを抱くことができるのであろうと思うのである(【筆者造語辞典】「自捨他助」)。それが武士道の本懐であり、神髄であると思うと同時に、未来世界の精神であると思うのである(20.9.1「武士道精神とは何か?」)

  「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という『葉隠(はがくれ)』に記されている文言があると聞く。意味は違うが、他者のために命を捧げることほど人間として崇高な行為はない。ノムが死を恐れないのは、死が永遠の眠りであり、人生の全うであるからであり、決して敗北であるとは考えないからである。そして余生を送る身としては、出来るだけ早く死ぬことを願っている。それは他者に貢献するということが少なくなっていくからであり(今は仕事もしているし、そば打ちや雑草取りなどで社会貢献もしている)、むしろこれから他者の貢献(恵み)によって生かされる身になっていくと思うからである。既に自己実現をしたと考えているノムとしては、出来るだけ早く死んでこの世に負担な存在にならないようにしたいと思っている。

  ここで「自己実現とは何か?」という疑問が湧くであろう。それは幼少の頃や青年の頃に夢見た自分の志を全うしたかどうか、という事であろうと思う。多くの人の人生は、途中で目標がころころ変わるものであり、それに応じて人生の目的も変わっていく。ノムは青年(学生)の頃に、世の中がどう動いていくのか、に非常に興味を持った。図らずも大学紛争があったからである。それまで学問というものに余り興味を示さず、ひたすら勉強にのみ打ち込んだ自分としては、折角入った大学で研究の経験が出来ないということに衝撃を覚えた。そこで仲間と一緒に「動向研」というものを立上げ、将来はどうなるのだろうか、というテーマを論じあった。それは数回しか続かなかったが、無理もないことであった。自分達に何らの指針となる考えが無かったからである。その時に自分が語った言葉を今でも覚えている。「退職後の人生のために今を生きる」というような内容であった。友人からは笑われたが、その確信は未だに変わらない。だがその後就職し、そんなことも忘れた頃に、公害問題から環境問題に世の中の目が移り替わった。それは技術者としてのノムの誇りをいたく傷つけ、何とかしなければという思いが募った。

  それからというもの、一転してノムは学問というものに初めて興味を持つようになった。自学自習がそこから始まった(21.10.11「人間の学習・認識・記憶能力」)。およそ30歳の頃である。それまで嫌いであった歴史や哲学・思想にも興味を持って学んだ。今ではありとあらゆる分野の学問に興味を持っている。そしてその学習はやがて一つの思想に収斂されていく。それをノムは「ノム思想」と名付けた(20.9.7「ノム思想(ノアイズム)とは何か?」)。他に類例が見つからなかったからである。そしてその体系が徐々に構築されていき、世の中の出来事に疑問というものが無くなった全てはこの思想によって説明できるようになったからである。と同時に、自分が追い求めてきたものに解答が与えられたという確信が湧いてきた。それはまさに、青春時代に追い求めようとした事が、実現したという瞬間でもあった。

  今ではブログを通してノム思想の解説、および世の中の事象に対する解説に全精力を傾けている。と同時に、若い頃に始めた園芸や、退職後に始めたそば打ち、そしてテレビでしか学んでいない囲碁を趣味としているため、時間が足りないほどの忙しさに忙殺されている。しばしば目をしばたたかせながらPC仕事に没頭する毎日である。だが一番幸せを感じるのは畑仕事をしている時であろう。それは正に青年の頃に思い描いた老年期の理想的な生活スタイルであり、それを実現できていることに感謝するとともに、自分なりに誇りを持っている。現代において自己実現を実感できるというのは幸せなことであろう。プーチン戦争があっても狼狽したり恐怖に陥ることはない(2.22「22年2月22日は大災厄の始まりとなるか? 」・4.7「人類の戦争史」)。全てが人類の直面している運命であると理解しているからである(20.11.7「運命論」)。そして大災厄の後に実現されるであろう未来世界への期待に胸を躍らせている(4.12「未来世界へのいざない」)。勿論、自分という存在は未来世界ではとうに無いわけであるが、自分の想像したものが未来に実現するというのは大いなる希望である。

  ある意味で、ノムは未来世界の精神文明をすでに実現してしまったのかもしれない。その精神文明では物質的豊かさを誇らず、利便性をすら拒否し、ひたすら自己満足を求めるようになるだろう。そしてその自己満足の中に自分の人生の自己実現を見出すであろう。未来人は死に直面して最高の満足と充足感を覚え、残された人々への気遣いはあるにせよ執着はなく、死ぬべき運命に身を委ねて息を引き取るであろう(4.15「安楽死における幻想映像の選択」)。そのような悟りの中に於いては、勝者も敗者も無い自分の人生を全うできたかどうかだけが問われているのである。未来人はノムと同様の心構えを持つようになるだろう。そして精神文明とは、如何に他者に対して自分の役割を果たすかという精神から生まれる、崇高な人間の最高の到達地点であることを理解するだろう。その文明には、自己創造や環境創造はあっても、自己破壊や環境破壊は無いのである(20.10.12「環境創造思想」・20.12.17「平和が地球を破壊する」)


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