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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

日本精神を壊す疑似生命尊重主義

2022-03-19
  今、日本に蔓延している「疑似生命尊重主義が、ウクライナにまで及んでいるらしい。〈不肖・宮嶋〉で有名なジャーナリスト宮嶋茂樹がキエフに取材行を敢行したところ、現地で、「(日本の)国会議員や弁護士までもが「早く降伏しろ」やの「どうせロシア軍には敗ける」やのとんでもないヘタレ論議が幅利かせているのが、ここウクライナまで漏れ伝わり、わしも肩身が狭あなるばっかや・・」と嘆いたと書いていたことにノムは衝撃を受けた。そこまで日本人は腐ってしまったのか?と。

  日本では長らくNHKがプロパガンダのように「いのちを大切にしましょう」とあらゆる番組を総動員して訴えてきた。別に国に指示されたわけでもないだろうが、国会でも「いのちを守る」が合言葉になっている。この疑似生命尊重主義思想、もしくはイデオロギーがどこから出てきたのか、あいにくノムにも分からない。だがそれはじわじわと日本人の精神を蝕み、ついには国を守るという人間本来の本能をも押しのけるほどに強力なものになってしまっているようだ。別項でも書いたが、今の日本が中国なりに攻められたら、国民は諸手を上げて降参してしまうのではないかと恐怖さえ覚える。若い人でさえ、ツテを頼って海外に逃亡するかもしれない。そんな雰囲気が上記の発言に表れている。

  ここでなぜ「疑似」という言葉を付けているのかというと、それは本当の意味での生命尊重精神とはかけ離れているからである。生命の尊重と言った場合、それは「生命の継承」に重きを置くか、「生命の維持」に重きを置くかで変わってくる。前者の生命の継承が本来の生物の持つ価値であり人間の価値観でなければならない。後者の生命の維持は本来どうでも良いことであり、むしろ「健康の維持」に置き換えられなければならないものである。人間はどっちみち死ぬ運命にあるからである。バトンレースのように、次の世代に命を引き継いだら自分の役割はそれで終わったと考えるべきなのである。無用の長生きは人間界にとっても地球にとっても害でしかない。現代日本のいわゆる「生命尊重主義」というものが、他者のために命を奉げるという尊い行為まで否定するようになっており、人の命の延命にのみ全力を傾けているというのは尋常な姿ではなく、まして多くの動物を殺して贅沢な食卓に彩りを添えているということに何の感謝の念もないとすれば、それは自己中心主義特権意識に根差したものであると考えざるをえない。

  現代の食糧生産システムの中で、畜産関係が地球温暖化に拍車を掛けていることはよく指摘されていることである。そのシステムは大量生産方式に移行しているため、1ヵ所で数万~数十万という数の飼育がなされ、一旦ウイルス感染などの疫病が発生すると、それはホロコーストと同じ手法で大量処分される。それはとても生命尊重主義に根差しているとは言い難く、人間にとって不都合な生命は簡単に処理できるシステムであり、人間の生命だけを尊重する「人間生命尊重主義」となっている。これをノムは [疑似生命尊重主義=人間生命尊重主義] だと考えている。残念ながらノムもその恩恵に与っている一人であるが、食事の度に犠牲となった動物に感謝を捧げるだけの気持ちは持ち合わせている。

  日本の疑似生命尊重主義が良い面を発揮したのは、コロナ禍に於いて衛生を徹底できたことであろう。そのお陰で日本はコロナ禍に対して最小の被害で済んだと思われる。だが一方、本来守らなければならない労働者層(20~60歳)に対して真っ先にワクチン接種を行わず、もう用済みの老人層(ノムを含む)を優先して接種が行われた。それは死亡率を減らすための方策であり、つまりは疑似生命尊重主義の考え方に基づいていた。この問題はコロナに限った話ではなく、健康保険制度や高額医療・最先端医療が老人に対して優遇されているという実態にも関係している。簡単に言えば、社会での役割を終えた老人にまで、その優遇がなされているのである。そのため、医薬が高額であっても保険が適用されるようになり、高度な生命工学に基づく医療が可能になると、それは無制限に高齢者にも適用された。こうして毎年1兆円もの福祉予算の増額が始まっている。このままでは国家は100歳寿命時代を迎えて老人のために国家予算を食いつぶすことになるだろう。

  つまり人間生命尊重主義は人間の年齢に拘らず生命の価値を等しくしてしまっているため、赤児から老人まで一律に生命延長にのみ価値を置き、その役割や貢献といった側面には価値を置かない赤児だろうが労働者だろうが老人だろうが、命は皆同じ、同じ重さを持つ、と考えているからである。ノムはノム思想の中に「新差別主義」という考え方を持っており、人の命も人そのものの価値もそれぞれ異なると考えている。最も価値が高い人は人格点が高く、社会貢献の大きい人であり、最も価値が低い人は、人格点が低く、社会貢献をしておらず、社会に迷惑や負担を掛けている(犯罪者・不労老人を含む)人である。これは価値平等論価値偏在論(価値不平等論)の違いであろうが、自然界は価値偏在論に基づいていることをまず認識すべきであろう。

  話題をウクライナ戦争に振ってみよう。16日に行われたウクライナのゼレンスキー大統領のビデオ演説は、米国連邦議会の議員らに感銘を与えた。全員が総立ちして拍手を送ったが、その拍手はお義理なものであり万雷の拍手ではなかった。その後、議員らからウクライナへの軍事物資の支援の提案は出たものの、ウクライナに派兵するとか、ウクライナ上空に飛行禁止区域を設定するとかの提案は皆無だったという。それはゼレンスキーが無茶な要求をしたからである。すなわち全世界を滅ぼす可能性がある米軍参戦を求めたからである。飛行禁止区域を設定するということは、ロシア機をNATO軍機が撃ち落とすことを前提としており、それには米軍の力が必要であり、自ずと米軍が参戦することを意味しているからである。ゼレンスキーは世界のことを考えずに自国を救うことを最優先にした。それは利己主義的であり、自己中心主義的であった。それに易々と手を貸さなかった議員らの判断は、米国のためというよりも世界の破滅を防ぐためであったのであり、賢明な判断であったと言えよう。

  戦争もまた生命価値偏在論に基づいており、上級指揮官の生命の価値は一兵卒の価値よりはるかに高い。それは非情な現実である。だが生命尊重主義では指揮官であろうが一兵卒であろうが命の重さは同じだと考えるその荒唐無稽な理想主義が、しばしば人間のまともな判断を狂わせている。コロナ禍がウイルスとの戦争に例えられるとしたならば、やはりここでも日本は人間生命尊重主義に偏った考え方をしており、ウイルスとの共存という考え方はできない。それはそれで、日本が対コロナ対策という点で成功したと褒められることではあるが、それによって多大な損失(経済損失・失業)と膨大な無駄(アルコール・マスク・検査・ワクチン)を生んだ報いを後から受けなければならないだろう。

  何事にも生命の犠牲は付き物であり、また犠牲を恐れていては失敗する。戦争も同様であり、兵士が死を恐れていては負けるのである。国民も同様であり、国を守る気概が無くては戦争は負ける果たして現代の日本人の中に、国を守るために命を捧げるという矜持を持つ人はどの位いるのだろうか。いざ戦争になって、国の命令だから仕方なく戦うという程度の心構えしかもたない国民であったならば、簡単に中国が攻め入ってきた時に白旗を掲げて降参するだろう。国民にとって大事なもの(家族・財産・生活)を守るためには、命を惜しんではならないのである。だが現代の日本ではひたすら命を守る、延命させることに汲々としており、そのような精神をプロパガンダで垂れ流しているNHKの意図は不明だが、確実に日本を亡国しようとしていることは確かである。すなわち、疑似生命尊重主義=人間生命尊重主義は大義というものを失わせており、それは日本精神をも破壊しているのである(20.9.1「武士道精神とは何か?」・21.8.21「「大義」論」)

  
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