【時事評論2020】
未来の教育
2020-12-03
未来を創造的なものにできるかどうかは全て教育に掛かっている。近い将来に人類が大災厄を経験し、そこから立ち直るためには全く新しい世界システムの構築が必要であり、その根拠を与えつつ実現可能性を示しているのがノム思想であることはこれまでに示してきた(20.9.7「ノム思想(ノアイズム)とは何か?」・21.5.24「江戸時代のシステムと未来世界のシステムの比較」)。それを世界の全ての行き渡らせるには3世代に亘る教育が必要であり、おおよそ100年の計が設定される。未来の教育についてはこれまで述べる機会が無かったが、「未来の性教育」については現代の問題に照らして必要を覚えて書いた。それでは片手落ちであると考え、総合的な教育論をここで展開したい(11.26「性教育の在り方」参照)。だが論文ではないため、議論を省いて要点だけをまとめたものに終わることはご容赦いただきたい。
人間は教育によって初めて動物である「ヒト」から人間としての「人」になり得る。これが未来世界での教育の位置付けとなっており、3歳までに人としての言語を習得していなければ、それは人ではない。また3歳になるまでは存在による社会貢献を認められないため、3歳以降に人格点が付与される。それは家庭教育・保育教育・公的義務教育・高度教育(大学・大学院)・専門教育(企業内教育・選択的自己研修)などのレベルに従って順次評価され、人格点というもので階層化される。人格教育・人格評価においては権力志向が極端に否定され、協調が重視されるため、人格点による階層化は権力を補強するものにはならない。
人は社会的動物としての存在でもあるため幼少の頃に親の愛を必要とし、同時に人となるために社会保育による集団規律を学ぶことも必要である。未来世界が真社会主義と銘打っているように、社会というものを最大の価値と考えていることからその社会への同化性を幼少の頃に習得させなければならない。その根拠とする思想はノム思想により示唆される「貢献主義」から出てくる。つまり人は社会に貢献することでその存在を認知される、という一言に集約される。そこから「感謝教育」というものが生まれる。幼少の保育教育の段階から、幼児らに感謝を教えることが重要となる。筆者の経験からすれば、食事の前に「いただきます」という感謝を教えれば、2歳の年齢でまだ言葉が話せなくても、手を組んで(あるいは合掌して)頭を垂れる仕草を教えることができる。食事が終われば再び手を組んで「ご馳走さまでした」と親が唱えれば良い。これは集団でも行われるべきであり、自然と感謝する心が幼児に浸透することになる。「3つ子の魂百までも」という諺があるが、3歳までに習得した事柄は一生に影響する。この時期にトラウマを与えてはならず、ひたすら褒めることで向上心を養わせる(10.19「賢人を今から作るために「賢童」を育てよう」・11.29「誉め言葉の効用」参照)。
公教育(公的義務教育) に入ることを子供というものは大いに喜び期待する。それは集団教育を受けることで、友達もでき、また集団でじゃれ合うことができるからである。つまり子供は総じて賑やかさを好む。学校が規則づくめであったり、記憶一辺倒の教育であったりすると、学校嫌いな子が出てくる。また幼児期に集団保育を経験していない子の中には、家庭環境の影響もあって孤立化する場合も出てくる。そのような子を特別に扱うのが良いのか、それとも同じに扱うのが良いのかはまだはっきり結論が出ているわけではない。窓際のとっとちゃんは成人後に立派に社会に貢献するタレントになった。運命論からすれば、様々な状況下に置かれることは仕方のないことであり、それを乗り越えていくのが人間の生き方そのものなのであり、理想的な教育環境を整えることに拘泥しない方が自然で良いと思われる。
公教育においては、①集団行動性・②沈着冷静性・③正直さ・④使命感・⑤学業成績・⑥運動能力、が評価される。これらはレーダーチャートで相対的に表示され、その子の特性がこれを見れば一目瞭然で分かる。それを教師や親は見ながら子供の特性を良い方向に伸ばそうとするだろう。従来の成績表に替わってレーダーチャート表と学業成績表が親に手渡されることになる。悪い要素を否定的に見たり、叱ったりすることは恐らく逆効果になる。それは子供の精神を歪め、ひいてはトラウマとなって大人になったときに現れる。行為に対して叱るのは当然であるが、性格や特性を否定するのは絶対にしてはならないことであり、教育期には兎に角褒めそやすのが一番である。その子が運動に秀でていればそれを伸ばすように機会を与えてあげればいいだろう。統率力があるなら、人の指導者になるよう他の人格要素を鍛えるように助言すべきだろう。学業に秀でていれば、学者になるよう勉強のやり方や方向性に助言を与えてあげれば良い。決して親が手助けして学習に直接関わるべきではない。しばしばそうした過保護を見受けるが、それは将来大人になった時に人を見下すようになり、また依存性・日和見性の強い大人になる。教育においては自然体が一番である。伸びる子は自分で伸びていくからである。
高度教育は人格点によって社会の指導層になるべきかどうかが見分けられてから、その必要が周囲によって決められるべきであろう。能力がないのに無駄な教育を授けるのは本人にとって苦痛であり、社会にとって損失である。指導層でなければ人は自由に好みに従って自分の将来を決めて良いであろう。指導層には厳しい訓練が課されるが、そうでない大衆には自由度がより大きいため、伸び伸びと人生を楽しむことができる。指導層は大きな報い(人望・地位・財産)を得るが、大衆はそれを得られない代わりに自由と楽しみを享受できる。高度教育は小学校の時からその能力に応じた方向の選択が行われた最終結果として本人が選択することになる。強制ではないため、職人的な自由性を求めることもできるが、多くの生徒はこの社会による選択(筆者は「レール」と呼ぶ)に従うだろう。現代では大学は教養程度のことが行われており、日本では大して努力もしないでも卒業できるが、未来の高度教育ではそれを受けることができるのは選別された適性のある生徒にだけ許されるものであり、ここにも義務を果たしたものに権利が与えられるという未来の義務・権利主義が反映されている。ここでは自由主義はない。専門教育が行われるということは、総合的見識力も養われることになり、一般教養がおろそかにされることを意味しない。特に政治分野に進んだ者は、将来の政治家になることを前提としており、高度な人格性が求められる。
技術的には現代の科学・技術が高度化していることから、より高いレベルでの教育が必要となり、大学院はそのために必要であろう。ここでは生産現場・研究現場の見学を含め、指導者になるという意識を持たせてより深い部分の勉強に入る。科学分野や芸術分野ではこの教育が役立つことだろう。政治分野にここまでの教育が必要かどうか分からない。政治感覚はむしろ現場で鍛えられるものであり、若い時に現場経験を始める方が良い場合が多いと思われる。だが逆かもしれない。政治の悪い面を先に覚えてしまう危険もあることから、ある程度の年齢になってから政治家として自立できる。議員になるには30歳という年齢が必要だと筆者は考えており、人格点は80点以上は最低でも必要であろう。選挙は主として人格点とその人の人望により人々の選択が行われ、政治家の掲げる政策による選択はほとんど意味がなくなる(11.2「選挙制度改革は急務!」参照)。なぜならば、未来世界は合議によって全てが決まり、個人の持つ考えや政策構想は反って弊害となるからである。それを主張し続けることは政治家の協調性が疑われることになるだろう。
未来の教育観というものは、「ヒトという生物は3歳で人間(人)になり、社会によって育てられる。その始まりは家庭であり、次に公教育、そして能力を伸ばす必要があるものには高度教育が施される。そして人は生涯に亘って社会から学び、社会もまた人を育てることになる」という言葉に集約される。それを如何にして実現させるかは試行錯誤で求めていかなければならない。決して特定のイデオロギーによって固定的になってはならず、創意工夫がいつも必要になる。