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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

心の在り様(10.23追記)

2022-10-22
  前項で「人の心とその思い」について述べたが、短い論評では語り尽くしていないというもどかしさが拭えない(10.21「人の心とその思い」)。人の心が生物としての本能的な知覚・経験から生じて、育まれるものだとすれば、その心から生ずる意志的行動にも多様性が生ずることはやむを得ないことであるが、人間が社会的動物である限り、その行動が善悪の評価を受けることもまた止むを得ないことである。人間界はそうした善悪の規範を設けることで、なんとか大きな争いを避けようとしてきた。人間界に善悪の規範(法・道徳・倫理)があるならば、それに従って善なる行動をする方が、生物的に言っても生存の可能性を大きくすると思うのが自然であるが、現実の世界を観ていると、必ずしもそうは言えない実態があることに気が付くであろう(21.12.1「性善説と性悪説」)。すなわち権力を握って上位に位置した方が、生存の可能性を大きくしているのではないか、とも思えるのである。「悪はのさばる」という格言もあるように、悪が優位に立っている場合も多いのであり、それはロシアという国家をみていると実感として理解される(10.18「快感・快楽の善悪論」)。では果たして人間は、善なる心を持つ方が有利なのか、悪なる心を持つ方が有利なのか、という問題に行きつくであろう(6.25「善悪の状況論」)。本項ではそうした問題を考えてみたい。

  ノムの経験で言えば、善なる心を持つ方が有利であることの方が多いのではないかと思うが、世の中の出世という事柄に限って言えば、逆に悪の心を持つ方が有利だと思えることが多い(8.26「昇格と立身出世」)。ノムは出世のために自分の心を偽ることができなかったため、早々に30代にして出世を考えないことにした。それは妻にも申し渡したことである。そして仕事は熱心にやったつもりではあるが、出世をしないための工作をいくつか施した。それは実現して、上司などは見限ったようである。これまでの生涯を通して、その決断をしたことを後悔したことはない。人生の終わりに近づいてきて、やはり出世をしなくて良かったという結論に達した。日本では出世をしようがしまいが、収入にそれほど大差があるわけではなく、出世のために自費を費やした人の方が、結果として残した金銭は少ないと思えるからである。それは社長になった多くの友人をみていてそう感じる。ノムは自力で老後の蓄えを作ろうと30代の頃から意識し出した。そして投資などをした結果、出世した人よりも資産を築くことができた。それは社会貢献を第一に考えるという心がけが良かったからだと思っている。

  10月20日のNHKの国際報道では、ロシア国営テレビの元人気司会者であったファリダ・クルバンガレエワ(女性)は、上から指示された原稿に、「キーウのクーデター政権」と呼ぶ表現が何度も出てきたことを機に、辞職したという。「自分の人格を破壊して働き続けるか退職するか、退職を選んだのは私なりの抗議だった」と語る。自分の意に沿わない仕事をしたくないという理由で仕事を辞めるというのはとても勇気のいることであり、ノムはこのような人を称賛したい。ロシアの国営テレビの責任者は週に一度クレムリンの作戦会議に呼ばれ、放送内容に関して指示が与えられ、それに沿って下の組織が右に倣えをするという。これに抗したのはいずれも女性であった。社会に女性が必要だということの傍証にもなることである。ノムは辞めざるを得ないような左遷命令を受けたが、それを克服して片道6時間に及ぶ通勤を選択した。辞める勇気がなかったわけではないが、辞めざるをえないほどの圧力があったわけでもない。ファリダほどの困難な状況にあったわけでもない。仕事を続けることの方が価値が高いと判断したまでのことである。

  公的な仕事においても、善を求めることは成り立つかもしれない。ごく一部の例かもしれないが、二宮尊徳・渋沢栄一・松下幸之助・稲盛和夫などは、少なくとも私利私欲を求める偉人・財界人ではなかった。特に尊敬する二宮尊徳は田畑屋敷を売り払って官舎に住み、死後に遺した遺産はなかったとされる(20.10.19「二宮尊徳の偉業」・21.3.5「二宮尊徳の思想と精神」)。だが多くの弟子や子らに「報徳仕法」という思想を遺した。これらの人々の伝記の一部を読めば、そこには不屈の精神と共存共栄の精神、そして滅私奉公的使命感があったことがよく分かる。それぞれの偉人にとっての人生の目的は異なっていたが、公への貢献を志していたという点では共通するのではないだろうか。こうした事例は特別な場合であると見做すこともできる。だが多くの平凡な人生を辿ってきた人の生涯をみても、生真面目に一生懸命物事に取り組んだ人は成功している。逆にあくどい手法で生き抜こうとした人は失敗していることが多いように思われる。こうした生き方の是非に関する研究というものがほとんどないため、統計的にノムの実感を証明することはできないが、世に多くの格言があり、それは善を勧めていることからも、ある程度は傍証となるであろう。

  こうしたことから、ノムは善なる心構えを推奨したい(21.4.27「善悪の基準とその闘争」・21.4.28「善悪の視点の問題」)。どんなに善を尽くしたとしても、人智の及ばない運命には逆らえないが、恐らく不慮の不幸に見舞われた人でも、決して後悔はなかったのではないかと想像する(20.11.7「運命論」)。善なる心を以て物事に当たれば、それがうまくいかなかった場合であっても後悔はなく、次の一歩を踏み出せるのである。逆に悪を為して失敗した場合、それは心を苛むが故に再出発は難しい。人間は更生できる能力を持っているが、更生に成功した人は少ないとノムは思っている(「未来世界における人の教育と犯罪者の更生」予定)。ならば最初から、後悔しないように善を以て事に当たる方が、人間として生きる上で有利なのではないだろうか。「良貨は悪貨を駆逐する」という格言があるが、「良心は悪心を駆逐する」とノムは信じたい。

  ノムは心の問題を金銭や立身出世よりも重要視する考えから、未来世界では心の在り様を最大の価値と考え、人格点という手法を編み出した(20.8.30「未来世界における人格点制度」)。これはゲーム理論に則っており、人間の心を自然な形で善に導こうとするものである(20.9.24「「ゲーム理論」とは何か?」)。これまで人間界では立身出世が最大の価値のように思われてきたが、未来世界では心の在り様が最大の価値となるだろう。たとえば、会社において社長よりも平社員の方が人格点が上である場合、社会の尊敬はその平社員の方に傾く可能性が出てくるということである。社長が金儲けだけに価値を見出して邁進していたとすれば、それは人格点には大きく寄与しない。逆に平社員が少ない給料の中から被災者に寄付をしたり、平素から雑草取りなど社会貢献をしていたとすれば、社会は平社員の行為の方を高く評価する。自ずと人格点に反映されて、人格点という評価では社長を超える可能性は大きい(21.3.18「受益者負担・貢献者優遇」)そうした社会になれば、人の心は自然と善に向かうようになるだろう。実際には社長になるような人であればこそ、社会貢献に精を出すようになると思われる(21.12.29「社会貢献」)


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