本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

二宮尊徳の思想と精神

2021-03-05
  前項の「学びの重要性」に引き続いて、今回は二宮尊徳を取り上げることにした。丁度BS朝日が放送した番組の「百年名家」で『二宮尊徳の教えを伝える大講堂』というものがあったのでそれも参考にしたい。

  尊徳の業績については既に書いているので、本項ではその精神について学びたい(20.10.19「二宮尊徳の偉業 」参照)。尊徳は幼少の頃から『論語』に親しんだと言われる。実家が富農であり、父親が論語に親しんでいたことから、教えられたのかもしれないが、銅像のように自分で暇を見つけては学んだ。酒匂川の洪水によって一家が離散し叔父に預けられたときに、夜も灯明の下で勉強をしていて伯父に油がもったいないと怒られたようで、自分で荒れ地に菜種を撒いて育て、種を採って搾り、自分で菜種油を作って勉強を続けたという逸話がある(尊徳自身は幼少期の頃について全く語らなかったという。逸話は村人が誇張したものが多い)。そこまでして学びに面白さを感じたというのは尋常ではない。論語などの当時の学問書は決して面白いものでもおかしなものでもなかったが、彼はそこに物事の本質を見出したのであろう。

  彼の偉業を偲んで明治時代になって尊徳ゆかりの地である静岡県掛川市に、民間では日本初の公会堂が「大日本報徳社」として1903(M36)年に建造された。尊徳の弟子の一人である岡田佐平治が掛川市倉真の人だったことから、彼の息子良一郎が中心となって設立された「農学社」が前身とされる。その入口の柱には対聯(ついれん)として、「至誠」・「勤労」・「分度」・「推讓」と書かれており、それぞれ「本・主・体・用」として勧めている。これらは尊徳の精神が凝縮された言葉とされている。玄関軒下には「地天泰」という、万事が安泰であることを良しとする教えが刻まれており、また扁額に相当するものには「以徳報徳」と書かれている。そしてその考え方全体を「報徳」という言葉でまとめているが、今日では「報徳思想」と呼ばれる。その意味を現代訳すれば、「万物には全て良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)ことが大切」という教えである。この教えはやはり弟子の富田髙慶によって『報徳記』(1856年完)として纏められ、1883(M16)年5月に宮内省により出版されて官吏などに配布され、1885年2月に一般に向けて出版された。

  大日本報徳社の建物は明治後期に建てられたこともあるが、和洋折衷デザインとなっており、しかもその建築部材は各地の古材が用いられた。すなわち、リユース(再使用) を心掛けたという点でも現代よりも最先端を走っている建物である。その入り口の柱に刻まれた「至誠・勤労」とは、真心を持って慎ましく務めることを指し、「分度・推讓」は、自らを知り、譲る心を持つことを指している。彼の思想は論語と同様、尊徳が語ったものを弟子が纏めたものである。彼自身は「報徳仕法」というノウハウを広めたとされる。その中で道徳に基づく経済を説いた(「経済道徳一元論」)。それは現実にあって理想を説いただけでは駄目だという厳しい教えであり、それであるからこそ、彼が行った600にも上る諸事業が成功したのであろう。また後世の人もこの教えを現実に当てはめることができた。幕末から明治に活躍した渋澤栄一・安田善次郎・鈴木藤三郎・御木本幸吉・豊田佐吉も尊徳の教えそのものを信条としていたり、大きな影響を受けていた。さらに昭和の松下幸之助・土光敏夫・稲盛和夫といった実業人にも影響を与えている。明治維新の元勲と言われる伊藤博文の扁額が講壇に面した後ろ側の天井近くにあるが、それには「無尽蔵」と書かれている。これは尊徳の「天津日の 恵み積みおく 無尽蔵 鍬で掘り出せ 鎌で刈り取れ」という道歌から取った言葉である。尊徳は恵みは無尽蔵であると説いた。伊藤博文は大日本報徳社によって多くの人材が育成されることを願ったのであろう。尊徳(たかのり)の偉業は息子弥太郎(後の尊行:たかゆき)と多くの弟子に引き継がれ、さらに孫の尊親(たかちか)にまで引き継がれた。このような事例は世界広しと言えども他にない。

  尊徳の精神を誇りに思う市民らによって、大日本報徳社の建物も、それがある掛川城の本格的木造の城も寄付金によって建てられた。特に掛川城は東海の名城と称されるが、有名な忠臣として知られる山内一豊によって1621年に天守が設けられ、2度の地震で倒壊してからはそのままになっていた。だが市民の情熱と熱意により、市民や地元企業などから11億円の募金を集めて、1994(H6)年に戦後初となる木造による天守を再建したのである。これらの偉業が出来たのも、市民の間に尊徳に対する深い愛情と尊崇の念があったからであろう。2階は回廊のようになっており、ここに人々は座って聴講した。高窓が2階にあるため明り取りになっており、自然光を利用するようになっている。1階の200畳の畳と2階の回廊を併せて600人が収容できたという。回廊は天井から下がる鉄棒で吊られている形になっており、その鉄棒はドイツから取り寄せたという。すなわち最先端の技術を使っていたということである。一方多くに古材を用いて倹約もしている。そして現在も、単に記念館として残しているだけでなく、現役として活躍しているそうである。当時は聴衆が外にまで溢れたこともあったそうだが、国民自身が学びの精神を持っていたことの証であろう。

  大日本報徳社の建物は5棟から成る。そのうち仰徳(こうとく)学寮・仰徳記念館は皇族の有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)親王邸を卒業生の一木喜徳郎(後述)が譲り受けて1938(S13)年に移築したものであり、兾北(きほく)学舎(1877年造)は創始者の岡田良一郎(1839-1915:尊徳の4大弟子の一人)の住まいであった。良一郎は自宅を開放して全寮制の学び舎とした。全国から集まった才子らは1877(M10)から7年間で152人であったという。その中から息子の良平は文部大臣を務め、一木喜徳郎(内務大臣等)・山崎覚次郎(法学博士・経済学者)らを輩出した。まさに日本が文明開化したときの黎明期にあって、幾多の逸材がここから出ていったと言えるであろう。それはこの学び舎が私的なものであったこと、全国から優秀な学徒が集まったこと、などに特徴があり、それは日本の公的学校制度(1871:「学制」制定)よりも以前からあった寺子屋や藩校という私的な学び舎の伝統を受け継いだことが、近代日本の躍進に繋がったと言えるであろう。

  今日の日本の状況をみると、国家は1000兆円にも達する莫大な借金を気にも留めずに医療費・福祉費の増大を放置している。これほど馬鹿げた尊徳の教えに反する政治はない。もし現代に二宮尊徳が居たならば、政府のこのだらしない有様に驚き、直ちに改革の狼煙を上げたであろう。それに従う弟子が湧いて出てくるようであればよいのだが、現代の腑抜けとなった役人根性に染まった日本人からは、そのような人材が出ることは全く期待できない。明治時代という特殊な時代は江戸時代の気骨を残したまま近代化に突っ走った時代であり、そこには貪欲な学びの精神とともに、先代の遺した思想を矜持として持つ温故知新の智恵があった。現代人に精神と智恵の欠如を観る筆者の見方は悲観的すぎるのであろうか。

  未来に向けて二宮尊徳の教えを温故知新の精神で学び直す必要があるだろう。それは過去の教えを現代、ないしは未来に翻訳し直すことから始まる。そのためには同じ事を真似ようとするのではなく、尊徳の思想と精神の本髄を探る事から始めなければならない。それを可能にするには、まず自分自身の心を空にして、事象の根源とは何なのかを探ることから始めた方が良い。「急がば回れ」という諺があるように、その方が結論に達するのに早いであろうし、迷いもないはずである。そして尊徳の教えを翻訳した新しい道徳・新しい理念に置き換える必要がある。筆者の説くノム思想はまさに尊徳の教えと合致し、それを科学的な言葉として誰にも分かるようにしていると確信している(20.9.7「ノム思想(ノアイズム)とは何か? 」参照)。多くの人にノム思想を学んでほしいと思う次第である。




TOPへ戻る