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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

未来世界の医療

2021-10-26
  現代の医療は「人命尊重主義」のイデオロギーの下に、人々が納得できる道理を外れたものに変質している。たとえばコロナ禍の下で医療崩壊が起こったことで、数十人か数百人の軽い症状の患者が自宅療養を強いられたことを、政治のせいにして野党が政府を攻撃する材料にしているが、見事に世界に先駆けて第5波を収束させた政府の政策の正しさをまともに評価していないことにそれは表れている。野党の人命尊重主義は、たとえ医者に診せる必要のない怪我や病気であっても、人間には医者に懸かって最高の医療を受ける権利があると言わんばかりである。だがそんなことを民主党時代に実現したとは思えない。現実を無視した人命尊重主義は、現実とどんどん乖離するばかりであり、その矛盾は止まるところを知らない

  これからは未来医療として遺伝子操作による医療も入ってくるであろうし、既に1回の投与に掛る費用が1億円に達する高額医療も既に行われている。全ての病気に対して全ての人々が平等な医療を受けられる時代が来るかと言えば、決してそう言うことは起こらない。経済的格差や医療予算の限界があるからである(10.18「日本の財政 」)。仮に1億円の薬が1万円に値段が下がっても、また新たに最先端の高額薬が登場するからである。遺伝子操作による医療は設備と手間の関係から恐らく数百万円を下らない医療費となるだろう。これはこれまでの医療費の常識を超えた問題に発展してきており、考え方を根本的に改めなければ、世界は医療費で税金の80%を費やす羽目になるだろう。

  一方、貧困国や紛争国ではまともな医療を受けられない人もいるが、他国の国民はそうした人々のことは考えない。自分が良ければそれで良しというのが現代の生命尊重主義の在り様である。アメリカでさえ医療保険の在る無しで医療を受けられるかどうかが決まる。世界では人の命には格差があるのが実情であり、世界はそうした状況に妥協しているのである。今回の日本のコロナ患者に対する対応には差別は全く存在していない。ただ現実に重症者を受け入れる施設が絶対的に不足しており、また軽症者でも感染病棟でなければ受け入れられないという制限があったということから止むを得ない措置であった。まさに戦時に医療従事者が負傷者を手当する暇もないという状況に似ている。

  これからの医療ではその差別が一層ひどくなるであろう。高額医療も保険対象にしたために、日本は財政が既に破綻しているところに、医療費の財政負担はさらに破綻の幅を拡大した。毎年1兆円の福祉予算の増大がそれを端的に表している(20.2.27「高額医療は国家を破綻させる」)。こうした悪循環を断ち切るためには、人間の命の重さというものを再考しなければならない。かたや人間は、豚コレラが発生したというだけでその圃場の全ての豚の命を奪うホロコーストを行っている。同じ事を人間に当てはめようとはしない。すなわち人間の命は動物の命と差別しているのであり、それ自体にどのような根拠があるのかを説明してはいない。すなわち生命尊重主義ではなく、人命尊重主義に偏っているのである(20.12.24「生命尊重主義は破綻している」)。新聞には「〇万頭を殺処分した」と書かれるだけで、その動物への哀悼の表現はない。何にでも「供養塔」を立てる民族性を持つ日本人としてはいたたまれない気持ちになるのである。

  現代思想に於いても、未来思想に於いても、人間が自分達の命を動物の命よりも優先するということは変わらない。それは自然界の「弱肉強食」原理から当然のことであるし、未来世界に於いても人間が世界の生命系の制御者であるという立場を踏まえれば、動物の作為的ホロコーストもあり得ると考えられる(1.7「制御思想」)問題は生命の考え方や医療の考え方に情緒的思考が入ってきていることにある。目の前で動物が殺されるのを見た人は「可哀そうだ」という感情を持つ。また貧しい人が低額医療しか受けられない現実に対して、「差別だ」という怒りの感情を持つ。だが筆者は、某国の牧畜を営む家の少女が豚を殺すために銃で屠殺したという映像を見てショックを受けたが、それは古代から続く人間の狩猟生活からすれば自然なことなのだと悟った。某国の市場で羊が道路上で屠殺され、血がそこら中に散らばっている景色も、それは古代から続いてきた風景なのだと思い直した。

  そうしたことから動物の屠殺が人間の生命維持のためには仕方のないことだと理解できる。だが感染症の蔓延を防ぐために、その畜舎全体の動物を殺処分しなければならないとしたら、現代の牧畜業の在り方を改善しなければならないのではないかと考える。問題が反れるので、結論だけを述べるが、牧畜は小規模にしなければならないだろう。そして人間界の感染症においても、それがパンデミックを起こさないように、貿易を止めて自給自足体制に持っていく必要があり、さらに人々の生活は集落規模にしていく必要があると考える(20.4.20「グローバリズムによる災厄 」)。ノムの唱える田園都市構想はそれらを全て実現することができると考えている(2.9「田園都市構想」)

  医療の問題に戻るが、未来世界では高額医療というものを人々に適用することはない。それには人々の命に関する理解の変更が必要になる(8.22「人間界の原理 」)。すなわち、①生命は引き継がれることに最大の目的があり、生殖を終えたあとに生きながらえることに意味はない・②命は誕生と死の繰り返しであり、人は死から逃れることはできない・③人が生きながらえようとするのは本能からであるが、それは人間界では掟によって間違いとされる、等の新しい認識が教育されるだろう。そのため未来世界では、不労者に対する過度の医療はしない。不労者とは怠けて生業についていない人・病気で長い療養を強いられている人・定年退職して年金暮らしをしている人、を指す。どの場合でも苦痛を取り除く緩和医療は施されるが、過度な手術や高額医療は施さない。そうした決まりを作ることで、国家財政は健全なものに転換するだろう。間違ってはいけないのは、国家財政のために医療を制限するのではなく、人間の生き方の問題としてそうするということであり、目的と結果を取り違えてはならないということである。

  現代医療の目的は、「いかにして人間の命を救うか」、にあると言われる。そこに欠けているのは人間の生き方に対する哲学であり、死を排除しているところにある。すなわち現代医療には死の尊厳を守るという哲学が欠けている人間の意思を最大限尊重するならば、人間から苦痛を取り除くことは最大の恩恵となるだろう。多くの末期患者が、「苦痛を取り去ってくれ、死なせてくれ」と思うし、そう激白する。だが現代医療が「生かす」ことだけに目的を絞っているために、積極的に患者に死を与えない。それは患者の意思を無視することに繋がっている(7.16「倉本聰の告発・医療哲学の欠如への抗議 」)未来では人間の意思を尊重し、少なくとも死の床にある患者から苦痛を取り除く医療を積極的に行う。勿論これは本人の意思が明確な場合であるが、安楽死が制度化されるであろう(20.11.8「安楽死をどう考えるか」)。それは現代に於いても限定された範囲でいくつかの国が既に取り入れている。つまり未来世界の医療には、死の介助という考え方が取り入れられるであろう。

  筆者はさらに進んで、人間の意思を尊重するという立場から、医療とは関係なく人間が死を望んだ場合、それを合法化することも考えている。「自死」という考え方は現代にも出てきているが、まだ容認されたものではない。だが日本では殉死という考え方が武士の間にあった時期もあり、それほど違和感があるものでもない。人が自分の命を捨てて他者を救うという行為は英雄的とされる。自死は人間の意思の問題である。だがそれが家族・周囲・世間に与える影響は計り知れないほど大きいため、余程のことがなければ人間界はこれを許容しないであろう。だが禁止するという理由がないこともまた自明である。

  医療の問題に戻るが、健康な人間に自死の意思を認めるようになれば、ましてや死の床にある人間に自死の意思を与えるのは当然の理であろう。人が医療を始めたのは、病や死の苦痛から逃れたいと思ったからである。誰でも死の苦痛から逃れたいという本能的欲求を持っている。この世における役割を果たしたという満足感を持って死に臨める人は幸いである。そうした人に安楽死を与えるということは、社会がその構成員である人々に与える最後の褒美であろう。それは社会の持つ慈悲であり、死にゆく人にとっては有難いことである。

  最後に結論をまとめよう。未来世界では人間の生き方をできるだけ自然なものに近づけるため、過度な医療(臓器移植・投薬漬け・不要な手術・高額医療・遺伝子治療、等々)はしない。定年を迎えて余生を楽しんでいる人には、過度な医療だけでなく、通常医療であっても費用が保険を大幅に超えるような過剰医療はしないであろう。そして人々の側でも生命としての寿命が来たときには、その運命に逆らわらずに死を選択するであろう(4.10「人間の寿命 」)。その時が来たら社会は、その人間のこれまでの貢献に感謝して安楽死というご褒美を与えるだろう。そうして人は夢見心地の中で死を迎え、冥界へと旅立つのである(冥界というものがあるかどうかは信心次第)。筆者は定年になってから、医療費負担を減らすよう努力している。そして重篤な病気に罹ったら、社会に迷惑を掛けないように死を受け入れる覚悟を持っている(5.11「死の哲学の科学的根拠 」・5.22「病気と介護 」)。今すぐに死んでも悔いはないという死生観をもっているため、何も恐れるものはない。それは筆者が2度、死んでいたかもしれないという経験をしたせいかもしれない。今生かされているのは恵みであると感謝している。


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