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【時事評論2021】

死の哲学の科学的根拠

2021-05-11
  2021年4月5日にNHKの「ヒューマニエンス」という番組で、『 ”死” 生命最大の発明』が再放送された。これは筆者の主張を科学的に裏付けるもので、非常に有意義な内容に富んでいる。「死」については以前に取り上げたテーマであるが、この番組から得た知識と、筆者の主張を織り交ぜながら、死の意義とその重要性について再度考えていきたい(20.4.27「人間の死生観と死の哲学 」参照)

  人間がもし死ななかったとしたら、現代の人口およそ78億人は1085億人であったという。以前から計算してみたかった数字であるが、図らずもこの番組で知ることができた。そしてアップル社の共同設立者のスティーブ・ジョブズ(1955-2011)はスタンフォード大学でのスピーチで、「死を望む者はいない/死は我々すべてが共有する運命だ/それを逃れた者はいないし、今後もそうあるべきなのだ/なぜなら”死”は生命最大の発明なのだから」と言った。彼は若い頃から東洋思想、特に禅に関心を寄せており、自称仏教徒だという。結婚式も曹洞宗の禅寺で行っており、菜食主義者で蕎麦と寿司を好んだ。だが2003年に膵臓癌と診断されて東洋的手法で治療に臨んだがその甲斐なく、ついに膵臓摘出をした。上記演説は癌を宣告された後のものだという。2008年に肝臓転移が分かり、2009年には肝臓移植を受けている。2011年10月に死去するまで、現実には生きることにこだわった。偉人で悟りの深い人でも、西洋人のせいか、いざとなるとこのような闘いを繰り広げてしまう。そこにこの問題の根深さがあるのだろう。

  臨床的には死は、①心拍の停止・②呼吸の停止・③瞳孔反応の消失、の3つで確認される。心臓・肺・脳という重要器官の停止を確認するわけである。だがこれは厳密ではなく、たまに蘇生することもある。脳死患者から心肺維持装置を取り外した後の経過を辿ると、取り外しとともに心肺は停止するが、脳神経は逆に活動を上昇し始める。だがこれは神経細胞が死んでいく過程なのだという。死後4時間経った豚の脳を摘出し、人工血液と薬剤を投与すると脳の一部の活動は回復した。だが最大でも6時間しか持たなかった。このことから死は瞬間的なものではなく、徐々に全身が機能不全に陥っていく過程であり、一種のグラデーションがあるという。ちなみに脳死状態でも免疫は働く。

  臨死体験は、脳に血流が行かなくなったために、上記のような脳神経の最後のあがきが起こり、その時に異常な感覚や夢を見るのだと思われる。その後血流が回復することでいわゆる’生き返り’が起こるわけであるが、そのような人の体験は全く現実ではない。2001年に、脳死体験をした人にアンケートした結果が医学誌に載せられたが、幸福感:56%・死んでいるという感覚:50%・死者との出会い:32%・トンネルの通過:31%・天界の風景:29%・身体からの離脱:24%・光との交信:23%・人生の回顧:13%、などが見られる。

  死の過程では脳の神経細胞からいろいろな物質が放出されるという。その1つにエンドルフィンという脳内麻薬とも呼ばれる物質もあり、それが幸福感をもたらすのではないかと考えられている。この物質はモルヒネのような鎮痛作用と多幸感をもたらす宗教的妄想もこのような物質が関係していると思われる。これは死に当たって生命が編み出した無用な苦痛を避けるための自然の叡智なのだろう(20.12.1「自然の叡智と人間の叡智」参照)痛みというものはそもそも病気の場所を知らせたり、その重症度を知らせたりするための信号であるが、死に向かう生命にとっては痛みは必要がないからである。よく事故で瞬間的に腕をもぎ取られたりした場合、痛みはそれほど感じないと言われる。だが生きる可能性が残されていると、その痛みは激烈なものとして表れてくる。それと同じような、無用の痛みや苦しみを避ける仕組みがあるのかもしれない。

  もし医学研究が進み、人間の脳だけを培養器の中で生かし続けることが出来た場合、そして個人としての記憶や意思が再現されるとした場合、個体の死という概念は非常に曖昧となる。だがそのような試み事態に何の意味があるのだろうか。そうした医学的好奇心から生じる妄想をすることに、人間の傲慢さがないのだろうか、と筆者は考える。そのような試みはSF映画には出てくるが、そもそも脳の機能というものは全身との調和にあるため、一部だけを長く生存させることは恐らく不可能であろう。臓器移植はその臓器が新たな個体と調和することで機能し得るが、臓器だけではそれができないからである。

  番組では死をシステムの一環として捉えていく。京都大学の石川冬木は、種による寿命の上限の存在の仮説の1つとして「テロメア説」について語る。テロメアとは、細胞の核にある染色体上にある末端の部分である。これが細胞分裂のたびに短くなり、まるで回数券のような働きをしている。テロメアが短くなると細胞は分裂が難しくなり、老化する。この老化細胞が増えると臓器や筋肉の機能が低下し、ついには死に至る(自然死・老衰死)というわけである。だが科学者は不老長寿を目的に、このテロメアの修復を試みてきた。だが動物実験ではテロメアの修復は癌化を伴った

  東京大学の小林武彦は「テロメアは細胞の分裂を止めて癌を回避している」と考えている。またテロメアが人によって短くなる速さが違うとも言う。老化は年齢よりも個人差の方が大きいのだそうだ。それは生活習慣の違いが大きい。紫外線に多く当たっている人・飲酒の度が過ぎる人・過度なストレスを持つ人・喫煙者(これには筆者は異論を唱える)、などがそれに当たる。一方短くなったテロメアを伸ばすテロメラーゼという酵素もあるそうだ。基本的に動物ではテロメラーゼが働く場所は生殖細胞の1ヵ所であるという。そのため生殖細胞では細胞分裂に限界がないとされる。例えば精子は精母細胞から生まれるが、毎日1億もの精子を生み出している。卵子は卵母細胞から生まれるが、経年変化を受けている。生殖細胞は生命誕生の時から生命を継承させるために不老の宿命を負っている

  生命の継承細胞は不老(卵母細胞はある時期までに減数分裂を終えており、それ以後老化する)だが、個体の身体細胞は老化の宿命を負っている。その事により細胞の癌化の問題を回避しているというのである。もし個体が不老になると、その細胞のダメージが引き継がれてしまう恐れがあるのかもしれない。そもそも生殖方法には無性生殖と有性生殖があるが、この違いに重要な意味があるという。小林が説くところによると、有性生殖が出来る前には、死という概念は存在しなかったという。つまり無性生殖はクローン増殖方法であるため、個体は永遠に引き継がれていくことになる。有性生殖になって初めて親から子が生まれて親は死んでいくというパターンができたのである。これは環境変化に対する適応性を高めるために、遺伝子の多様性を有性生殖により創り出すことが目的であった。

  だが人間だけは例外だと小林は言葉を続ける。寿命は子どもを創れる期間と相関があり、多くの生物は子孫を残したらその役目を終えるため死んでも良い(サケが典型的)。だが人は生殖期間を終えたあとに長い余生がある。それにも生物学的意味があると彼は考える。動物の生殖期間とその後の余生を比較してみると、チンパンジーのような類人猿でも余生は極めて短い。だが人間だけは生殖を終える年齢(男で70歳程度・女で50歳程度)の倍ほど生存し続けることができる。そして生殖期間は相対的に見るとチンパンジーより短くしている。ゴリラやチンパンジーのメスは死ぬまで生理があるという。人類で最長寿だったフランスのジャンヌ・カルマン(1875-1997)は122年生きた。彼女の場合、閉経後の生存期間の方が長かったのである。

  閉経後の余生の意味を説明する仮説として、「おばあちゃん仮説」というものがある。J.C.ウィリアムズはその提唱者の一人であるが、人間は余生を子孫の世話に振り向けていると考えた。つまり’おばあちゃんとしての役割’があるというのである。人間の社会的成熟にはかなり長い時間が掛る。昔は15年程度であったが、現代では20年ほどに延びている。その間、親は働いており、子に十分な世話を焼けない。その分をおじいちゃん・おばあちゃんが役割を果たすことで、その家系は寿命を延ばすことができたというのである。また文化の継承という意味でも祖父母が子の養育で果たす役割の意味は大きい。

  もう一つの問題として、人だけが死に対して強い恐怖心を持っているということがある。それは何故なのだろうか?この問題が取り上げられながら、何の説明も科学的根拠も示されなかった。まだこの分野(人間心理学)では、納得できるような学説はないのであろうか。筆者はこの問題については、人間の持つ生存本能が、不老長寿を求めるという歴史を作ってきたと考える。その生存本能が、他の動物とは違って知的本能と結びつけば、当然の結果として不老長寿を求めるようになるだろうし、永遠の命への憧れになっていくであろう。キリスト教でもこの「永遠のいのち」という言葉が繰り返し出てくるのは、人間の本源的欲望なのだろうと思わせるに十分な証拠である。だがその欲望は間違っている。霊魂としての永遠性は問題がないが、生物としての永遠性が動物に生じたならば、生態学から明らかなように、最後には動物全体の絶滅に繋がることは自明の理だからである。

  番組では将来、死を劇的に減らすことができるかもしれない、という期待を語る。ここで筆者は強い違和感を覚えた。番組の冒頭で、もし人類が死ななかったら、今頃人口は1085億人になっていただろうという予測をしていながら、死を回避するのが人間の科学の勝利であるかのような言い方をしたのは矛盾しているからである。だが番組は死を先に伸ばすことについて触れたのであって、上記の言葉は誤りであった。その技術の1つが人工冬眠だという。筑波大学の櫻井武は2020年に世界を驚かせる論文を発表したという。自然界にはクマ・リス・ヘビのように冬眠する動物がいるが、櫻井は冬眠しないはずのマウスを冬眠させることに成功したというのである。彼は脳の特殊な神経細胞を興奮させることで、冬眠と区別することができない状態にすることができたという。すなわち脳内の冬眠スイッチの存在を明らかにした。彼はマウスの視床下部にあるQニューロンと呼ばれる神経細胞にある化合物を与えて刺激した。すると実験前に37度であった体温が24度まで低下したのである。すなわち基礎代謝が劇的に低くなった。彼はこれを人間に当てはめ、救急医療や慢性疾患の治療に役立てたいと言うが、当然人間の人工冬眠に応用されるだろう。将来の宇宙飛行にこれは有効だからである。代謝が下がると寿命は延びると言われている。だが彼は日本人であるため、そのような実利的な応用については語らない。だが不慮の死を減らすということは、とりもなおさず寿命の延伸を意味する。それが世界の食糧事情や環境破壊にもたらす影響を考えないというところに、科学者の視点の短絡性、栄誉追求性を見る。彼は善意から、治療のための時間稼ぎができると考えているのであるが、それは臓器移植や生命工学と同様、悲惨な人類の未来を将来するだろう。

  番組は最後に、未来の人の死に方について議論をした。小林は「死に方は社会が決めるだろう」と言う。「どういう死に方が幸せか、ということを社会が模索するだろう」という意味である。また「後進の迷惑にならない死に方を考えなければならない」とも付け加えた。不老不死への願望についても議論されたが、小林は「みんなが不老不死だったらいいが、ある人だけ不老不死だと価値観を共有できない」と馬鹿な事を言った。科学者なのに地球の養える人口規模というものを考えもしないということに恐ろしさを感じた。彼は冗談でそういう発言をしたのではなさそうである。だが最後に、「人は死ぬべき運命にある」と考えるべきだと、常識論を述べて結んだところはホッとした。だがそこには論理の飛躍があり、科学を放棄して常識論に堕落したように思えた。もっと納得できる議論を展開して欲しかったというのが実感である。

  筆者の「死の哲学」は、以上の議論にはない生態学的考察から導き出されたものであり、それは少なくとも動物という二次的生物(消費型生物)は無限に増殖することは許されないということであり、植物という一次生産者としての存在でも同様なのかもしれない。生物は物質循環に組み込まれた存在であり、物質循環に大きな役割を果たしていると同時に、生物が無限に増殖したならば、物質循環が破綻し、それは最終的に生物の存在を許さない状態になる、というのが自然の教えるところである。それを筆者は「自然の摂理」と呼ぶが、それによれば、少なくとも動物は誕生と死というサイクルを通じて物質循環に貢献する存在でなければならず、そのために自然は「死」と言う仕組みによって過大な増殖を抑えていると考える。すなわち死は地球生態系というシステムの必須条件なのである(5.3「自然の摂理 」参照)


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