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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

人口制御の視点の必要性

2021-03-24
  世界人口が相変わらず人口爆発の様相を呈している。18世紀から19世紀にかけてのそれこそ爆発的な現象は遠のいたが、その増加率は一定に固定化され、ほぼ直線的に増加をしている(20.6.27「バッタの異常増殖と人間の異常増殖 」参照)。2020年には78億人であったが、2030年には100億人を超えるかもしれない。だが筆者は地球の支え得る人口規模は100億人と想定してきた。そこに達する前に人口ストレスが戦争を引き起こすと考えてきた。そのため35年ほど前に2020年前後には大災厄が起こると予言してきた(002「第三次世界大戦の可能性」 参照)幸いなことに2020年に核戦争は起きなかったが、コロナ禍という大災厄に見舞われた予言はある意味で当たったと言えるかもしれないが、この程度の災厄は予想したものではない。大災厄は人口規模が2/3かあるいは半分ほどに減るカタストロフィが起こることを意味する。それはこれから起こる第三次世界大戦によって実現するだろう。

  そもそも現代が現在の人口規模について誰も疑問を呈しなくなったのはどうしたことだろうか。コロナ禍で多くの未来学者が将来予測をしたが、誰一人として人口問題を挙げた学者はいなかった。筆者は自然界に於ける生物密度、および人間における文明の特殊性という視点からこの人口問題を考えてきたが、その限界が100億人であると推定したのには文明的根拠がある(20.12.2「文明とは何か?」参照)。すなわち、100億人という数値はただ食物が足りて生きていけるという意味での限界値ではない。その人口が消費するエネルギーと排出する二酸化炭素を予測すれば、生活レベルの向上とともに一人の人間が消費するエネルギーと資源、そして排出する二酸化炭素などの廃棄物(プラスチックを含む)が限界を超え、それが文明に危機的ストレスをもたらすと考えるのである。

  幸いにというか不幸なことにというか、世界は経済的格差による貧困が圧倒的にまだ多いため、全世界の人口の7割ほどしか現代的文明の恩恵に与っていない。そのため筆者の予想した危機の到来時期は少し延びていると感じている。もし現在の78億人が先進国並の生活レベルになっていたとしたら、もっと早くに危機は到来していたであろう。

  まず地上における生物密度の問題を考えてみよう。生物数だけをみれば、ウイルス>細菌>植物>魚類>哺乳類の順になるのかもしれない。だが生物密度をその質量で考えてみた場合は異なる順になるのかもしれない。あいにくそれを比較するデータを持ち合わせておらず、正確なことは分からない。だが哺乳類だけを見てみた場合、人間がその数においても質量密度からみても最大であることは誰にも分かるはずだと思われる。最も重量のあるクジラやゾウはその数が圧倒的に少なく、クジラは70万頭・ゾウは1998年の調査で57万頭であるが、ゾウは現在かなり少なくなっているはずである。ということは、人類は極めて異常なほどその生息数においても質量密度においても他を圧倒していることが分かる。

  自然界は通常食物連鎖という仕組みによってその最大数が制御されており、人間だけが自然淘汰のトップにあって外敵がないため、無制限に増殖してきた。特に文明がそれを支えてきたが、農耕・産業革命・緑の革命・医療革命が主たる人口増の原因であると言われる。制御のない増殖は必ず破綻するフラスコの生態学という例でそれを観ることができるだろう。フラスコは半閉鎖系であるが、水を入れておくと必ず生物が侵入して何かしらが増殖する。通常は光が当たっていれば藻類が発生する。だが閉鎖系のために、その廃棄物によって全滅する。するとその他の生物が今度は繁殖し始める。それは大概菌類であり、藻類の死骸の腐敗をもたらす。すなわち生態系は変遷するのである。地球における人類も同様な運命を辿ろうとしている。人類が単なる生物であったなら、絶滅する前に菌類やウイルスによって人口調節がなされる。だが人類はそれを文明(技術)によって克服してきた。すなわち天敵が無くなったのである。

  だが生態系の破壊が起こっている。他の生物が駆逐されて大絶滅の様相を呈しており、人間自身もその文明(技術)の廃棄物である二酸化炭素により窒息死しようとしている(20.11.23「地球温暖化と動物窒息死の問題」参照)。温暖化も人間の生存を脅かしており、2050年までにその危機が訪れるであろうと科学者は予測している。気温がわずか2度上がるだけで世界は猛烈な乾燥化によってまるでその様相が変わるであろう。森林火災は二酸化炭素濃度を上昇させる正のフィードバックとして働き、海水中の溶解二酸化炭素濃度の減少も正、メタンハイドレートの噴出も正に働き、田や沼地から発生するメタンも正のフィードバックをもたらす。こうして急激に加速される温暖化は、恐らく予測を超えるものとなるであろう。1万年前に奇跡的に気温が安定した恵みを、人間は知性無きまま享受したため、その報いを受けようとしている

  だが筆者は人類は絶滅はしないだろうと予測している。それは人間には優れた適応能力があること、困難を克服する技術を持つことが理由として挙げられるが、それだけでは足りないかもしれない。もう一つ、叡智が無ければこの生存条件の変化を乗り越えられないかもしれないし、乗り越えた先にも叡智が無ければ存続を続けられるかどうかは分からない(20.12.1「自然の叡智と人間の叡智」参照)。その叡智の一つとして、人口の制御がある。もし人間が自らこの制御をするようになれば、自然の力が人間の力を上回ることにより、自ずと自然は回復し、ふたたび緑豊かな地球が再生できるかもしれない。だが科学的知見によれば、そのような甘い予想は打ち砕かれる可能性が大きい。すなわち環境悪化の正のフィードバックが加速すれば、もはや地上のどこにも人間の生存が許されないような状況が起こるかもしれないのである。その予測は現代の人間の知識では不可能であり、もはや運命にその全てを賭けるしかない(20.11.7「運命論 」参照)。だがそれでも筆者は、論語の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」に倣って、「たとえ明日死すとも、私は種をまく」を実践したいと思っている。

  では人口を制御するためにはどういう方法があるのだろうか(1.7「制御思想」参照)。まず第一に挙げたいのは、自然の摂理に任せるという態度である。今回のコロナ禍はその絶好例となるが、無理な抵抗はせず、感染を避ける工夫をするだけに留めて、犠牲を甘んじて受け入れることである。ペスト禍並の劇症をも受け入れるべきである。なぜならば、それは自然の調節機能であるからである。人間はそれに逆らおうとしない方が良い。第二に戦争による人の死を嘆かないことである。戦争もまた、人間自身が行っている人口調節機能であると理解されるからである。第三に避妊(これは既に行っている)・堕胎・去勢を人口調節機能として認めることである。これは認識の問題であり、キリスト教国では19世紀まで避妊すら認めていなかった。ノム思想ではこれらの手段を合理的なものとして認める。人権問題よりも人類の生存の方に価値を置くからである。これを認めるかどうかで読者の方々の視点がどこにあるかが問われることになるだろう。


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