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【時事評論2020】

自然の叡智と人間の叡智(2300文字)

2020-12-01
  「自然」という言葉には宇宙が誕生してからの経過が含まれると考えるのは妥当だろう。少なくとも我々が生を受けている地球の自然法則とこの宇宙の法則は一致しているからである。他の宇宙があるとすれば、それは異なった法則が支配する世界であるかもしれないと科学は語っている。だが少なくともそれを想像することは我々庶民には必要ないことである。だとすれば、生物がこの地球に誕生したのも、他の惑星に生物が誕生しているかもしれないということも、同じ法則の下に起こっている事象であると理解される。そして科学的宇宙探査は別として、我々にとっては地球だけが棲家なのであり、「自然」と言った場合には地球そのものを指していると考えても差し支えないだろう。
 
  自然の仕組みや法則に叡智というものがあるのだろうか、と人はしばしば考えてきた。すなわち人間が持つ知恵よりも遥かに高度なレベルの叡智(「神」のような概念)というものがあるのかという問いである。筆者は宇宙に意思があるとは思わないが、その巧妙な仕組みが生物を創り出したように、何らかの我々が知ることすらできない叡智を包含しているように思える。自然が進化という仕組みを持つこと、組織化という仕組みを持つことはその一端であり、人間が創り出したどのようなものも、それ自体が進化するということはない。時計は進化して高度な機能も持つようになったが、私の持つ時計自体は進化することはない。だが自然はその驚くべきことをやってのけてきた。その結果として地球という生命にとって恵まれた惑星ができたのであり、我々生命が生まれたのである(004「人間の存在の意味」参照)
 
  自然の叡智を人間は恐らく知ることはできないだろうし、人間の智慧など孫悟空が釈迦の手から逃れることができないように、たわいのないものであろう。だが科学はその自然の叡智の一端、ごく一部を垣間見ることを可能にした。だがそれでも人間はまだ、自分のまつ毛がなぜきれいに等間隔に必要な数だけ並んでいるのか、その生える方向を制御できているのはなぜなのかさえ理解はしていないのである(孫のまつ毛を見ていてそう思った)。それゆえ筆者はノム思想に「不可知論」を入れている。もし人間が自然の叡智を超えたと思ったならば、その時が人類の滅びる時だろう。あるいは人間は自然を超えることができると考えるのも同じようなことである。それは人間の傲慢さを表している。日本人は昔から自然に対して謙虚であったが、現代の日本人はその謙虚を果たして持ち合わせているのかと時々心配になることもある。ましてや外国人が金権主義や権威主義、あるいは優越主義(人間が一番と考える思想)から自然に対して傲慢に振る舞うことがあるのを見る時、人間の傲慢さは必ずその報いを受けるだろうと思ってきた。それが間近いことも痛切に感じるのである(003「地球温暖化による気候変動と動物大絶滅」参照)
 
  人間の叡智というものはどの程度なのだろうと、自然の巧妙さを知れば知るほど思わされることが多い。人間の筋肉と同じものを作り出せてはいないが、それ以上の馬力のある機械を作りだすことには成功している。だがその力も自然の圧倒的破壊力の前には無力である。だが人間は営々とこつこつ智恵を働かせ、いまや人間の内部に起こっている生理学的なことの一部を知ることもできるようになった。これには医学だけでなく、量子力学という物理学の分野の知識も役立っており、工学が大きな支えとなっている。だがそれらの知識や応用は一世代前の人間からは想像もできないほど革命的智恵の進化を見せているものの、哲学的にはほとんど何も進歩すらしていないことに改めて気付く。昔の哲学は総合的なものであったが、今や科学が余りにも先を行き過ぎているため、総合哲学が追い付かないというギャップが生じている。これを乗り越えることができるかどうかで、人類は叡智を持つかどうかが決まるのではないかと思っているが、その前に人類が滅びる可能性の方が早いかもしれない。つまり人間は神に到達する前に自身を自分の手で滅ぼすかもしれない。それは叡智とはとても言えないようなものであろう。
 
  人は自然に対してもっと謙虚になるべきである。人間の知識や知恵には限界があり、自然の叡智(意思なき仕組み)の前には無力であると悟ることが必要であると思う。日本人は昔からそのような自然観を持ってきた。だからこの考え方は日本人には理解されやすいと思われるが、西欧的合理主義に立つ西欧哲学にはそのような理解はできないのではないかと思われる。だが、人間が自然から報いを受けてどうしようも無くなった時に初めて、人間は自然の偉大さや怖ろしさに頭を垂れることになるのであろう。
 
  だが筆者は人間にも叡智は創れると思っている。それは自然の叡智よりは遥かにお粗末なものかもしれないが、自然との共生が出来た時に初めてそれを叡智と呼んでもいいのではないかと思う。その時の人間は現在の人間ではなく、より知的に進化したネオサピエンス(筆者が想像する未来の進化した人類)になっているだろう。そしてその知的進化を手助けしてくれる存在として、人間が創り出したものではあるが、人間に拠らずして知能と叡智を持つことのできるAIがあると考えている。AIは自己複製が出来ないという決定的欠点を持ち、人間は自分の我欲を乗り越えることが出来ないという生物学的欠点を抱えている。その両者が助け合うことによって、初めて人間は叡智を自身と世界(自然を含めたユニヴァース)のために使うことができるようになるだろう。
 
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