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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2024】

小さな親切・大きな恵み

2024-04-25
  世の中には「余計な親切・おおきなお世話」という諺があるが、ノムには後ろの部分の意味がよく分からない。なぜ「大きなお世話」が良くないことなのだろうか? そこで改めて、筆者造語として「小さな親切・大きな恵み」と書き換えてみた(【筆者造語辞典】参照)。だが調べてみると、「余計な親切・余計なお世話」という言葉もあるようで、こうしたものを「言い換え語」というそうだ。不勉強であることを改めて感じた。だが本題のような言い換えも、趣旨は全く正反対ではあるが間違いではないことは分かったので、事例を挙げて説明していきたい。

  このタイトルを思いついたのは、余ったジャガイモに芽が出てきたので、これを近所に配布して、野菜を育てる楽しみを作ってもらったらどうかと考えたからである。事実、取り残しのある畑には、思わぬところからジャガイモの芽が出始めている。4月初めに植えた種芋より早くでてくるのが特徴だ。だがいざ配布をしようと思った段階で、もしウイルス病などが出たらどうしよう、と考えてしまった。大規模農家がノムの種芋を持っていくようなことはないことから、庭先に植えたジャガイモ苗程度なら、ウイルス病が出てもそれほど問題はないかもしれないが、それが農家にも伝染したら大変なことになる。また間違えて食べてしまった場合、芽には毒があるというから、これまた問題が生じそうだ。「親切がアダになる」という諺もあることから、結局、残り芋の配布は止めにして、コンポストに入れて堆肥にすることにしたが、もし親切心から配布していたら、上記したような事故が起こったかもしれない。

  世の中には親切心からしたことが、迷惑に思われてしまうことが結構多いような気がする。だが、こうした助け合いの心を失ってしまったら、世の中は殺伐としたものになるであろうし、共生ということもできなくなってしまう恐れもある(23.8.22「競争から共生へ」)多少の問題があっても、親切心を忘れないようにすることの方が重要なのではないかと思われる。

  自動車を運転している場合は、過剰な親切はしない方が良い。横道から出てくる気配を感じて、親切心から車を止めて道を譲るというのは、マナーを超えた過剰親切であり、直進優先というルールにも反している。後ろから来る車が止まらざるを得ない状況をもたらしたとすれば、ある意味では危険行為にもなり得る。きわどい場面で道を譲ったがために、相手のドライバーが焦って急に進路を変えたりすると、衝突事故も招きかねない。自動車を運転している場合は、周りの状況を判断して、親切心を働かしても良いかどうかを冷静に判断すべきだろう。

  女性は男性の気遣いに負担を感じることがあるらしい。たとえば、ノムは単身女性を喫茶店に誘うこともあるが、決して疚(やま)しいことを考えているわけではないし、単に話を聞きたいからであるが、支払いは必ずノムが持つことにしている。男の見栄というよりも相手の経済的負担を考えてしまうからであるが、そうした気遣いが女性に負担感を与えているかもしれない。特に日本の女性は気位が高いため、奢られるとなおさら心の負担になってしまう恐れがある。素直に喜んでくれれば良いのだが、日本人はどうもそういう時の対応が下手である。外人ともよく付き合うが、外人は決して奢られるということに引け目を感じず、素直に喜んでくれる。

  小さな親切が過剰な気遣いから出ている場合は、相手は身構えてしまうこともある。また上司が部下に対して親切心からアドバイスした場合にも、部下のプライドを傷つけてしまうこともあるだろう。だがそうした微妙な心の動きにまで気を遣ってしまうと、全てのことに対して行動が消極的になってしまう。常識的な範囲で堂々と相手を思い遣るような行動をした方が、世の中が明るく元気になるのではないか、とも思う。

  組織では、社会的儀礼の範囲で付き合いのための贈答などを行うことがある。そうしたことが無くても、2つの組織の間の関係が良ければ、取引などに支障は生じないものだが、心遣いをした方が、より円滑に取引が進むことも事実である。それが常識を超えた場合には贈収賄になりかねないので注意が必要であり、あくまでも社会的慣例の範囲でお付き合いした方が良いであろう。最近は接待費というものがかなり制限されてきたせいか、滅多なことでは大掛かりな接待というものは少なくなった。それは良いことであり、接待のための接待は良いことではない。組織であっても心からの接待であるべきである。昔、ハワイ大学の語学研修で100人以上の学生を引き連れていったとき、アルバイト学生を接待したことがある。彼らには接待という日本の商習慣がないため、とても喜んでくれたことを思い出す。

  ノムが感心していることがある。家を建築する際、大手のプレハブメーカーに依頼する可能性もあったが、敢えて創立したばかりの小さな工務店に依頼した。社長の心意気を信頼したからであるが、この社長は先だって亡くなった。存命中は盆暮れに必ず名産の桃などを持って、自ら訪問してくれていた。会社の創立記念会にも招待してくれた。さらに亡くなった後も、後を継いだ息子の社長から相変わらず盆暮れの付け届けがある。人を信頼して任せたことが、これほど長く企業との付き合いになるということは、普通は考えられないことではないだろうか。

  小さな親切がアダになるよりも、大きな絆になるということの方が多いのではないかと思う。人は小さなことに感動したり、共鳴したりすることがままある(21.5.6「共感=シンクロ=共鳴=同期の脳科学」)。ある人が語ったことが、相手にとって一生の金言になることもある。そうしたことは「一期一会(いちごいちえ)」である場合も多い。たった1回のわずかな出会いが、人の一生を左右することもある。他の項でも書いたことだが、ノムが就職できたのは、知らない教授に「どこかいい就職口はありませんか?」と聞いたことが切っ掛けだった。たった数分の出会いがノムの一生を決めたと言っても過言ではない。そうした意味で、小さな親切をいつも心に置いて「一日一善」を実行すれば、世の中はとても明るいものになるであろう。

(4.19起案・起筆・4.24終筆・4.25掲載)


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