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【時事評論2024】

人間は本能的に肉体闘争が好き

2024-05-05
  人間は本能的に肉体闘争が好きなようだ。表向きには、闘争は好まない・血を見るのは嫌だ、と思っている人でも、スポーツ観戦や相撲などの伝統的格闘技、そしてボクシングやムエイタイなどの格闘技まで見たくないと思っている人は少ないだろう。そういうノムも、かつてはK1という格闘技が好きだったし、ボクシングもたまに観戦した。一般的なスポーツの中では、レスリングはショーとしてのものは見ないが、真剣勝負のレスリングはたまに見る。だがどちらかと言えば、アイススケートや卓球などの、格闘技でないスポーツ競技の方が好きである。未来世界でも、こうしたものは残るであろうし、そこには勝利への競争があるが、これは良い競争であると考えている(21.1.31「良い競争と悪い競争」)。どうして人間は肉体闘争が好きなのか、そこら辺りから考察してみたい。

  動物をまず考えてみると、彼らは生存競争と生殖競争のために闘争をする。特に生殖競争はオスとオスがぶつかり合う激しいものとなる。だが人間が生殖闘争をすることは滅多にない。生存競争のためにぶつかり合うということもほとんどない。これは人間が社会という掟で縛られた枠組みの中にいるためであり、その点で動物と人間は大きく違う

  人間に特異的なのは、知的本能で競争をするということだろう。それは知的ゲーム(最近では頭脳スポーツという言い方もする)に現れている。囲碁・将棋・チェスは代表的なものだが、日本人はオセロも発明した。肉体闘争であっても、対戦スポーツとしてのバレーボール・バスケットボール・卓球などの球技は、直接的に肉体がぶつかり合うことはなく技を競うものであり、ラグビー・アメフト・サッカーなどはぶつかり合いが入っている。1対1の試合と集団対集団の試合の種類分けもできる。

  人間は古来から肉体闘争が好きであった。古代ローマではコロッセオなどの競技場で、人間対人間、人間対動物の血みどろな闘争が繰り広げられた。それを観戦する市民も興奮し、喝采や絶叫があったことだろう。闘争をする人間も、その観客も、脳内にアドレナリンが大量生産されるようだ。その興奮がより刺激的な肉体闘争を求める。古代ローマでは、「パンとサーカス」と言われたように、政治的安定のために、無料で闘争劇が提供された。今日では有料の娯楽として団体が企画しているが、未来世界ではどういう形に進化するのだろうか?

  未来世界では、人間の本能を満足させるように、バランスの取れた諸々の政治的施策が講じられる。生存本能を満足させるには、生きていくに必要な栄養を提供する必要がある。人間社会ではそれだけで生きていくことはできない。生殖本能がコミュニケーション本能に変質していることから、性的コミュニケーションの機会を与えることも必要だろうが、これについてはまだノムの考えはまとまってはいない。ただ性欲を満足させる非コミュニケーション的施設の提供を提案するに留まっている(22.8.3「未来世界の性欲処理施設」)。最近、結婚制度の無い社会というものが実在することを知ったが、それはチベット仏教という高度な精神的縛りの中でのみ有り得るものである。今後これを参考に、未来型の性的制度が確立されていくことだろう。知的本能を満足させることは、現代ではほぼ実現されている。というか、それは過剰になっており、知的本能から生み出された新技術が世界を混乱させ、特に新兵器(核兵器・ミサイル・ドローン・AI兵器)が世界に甚大な脅威を与えている。これを制御することが、未来世界では求められている(21.1.7「制御思想」)

  知的本能をどうやって制御するかが未来で最大の課題となるであろう。それは好奇心の制御と言ってもよいものである。人間は新しい知識や技術に非常に強い関心を寄せる。平凡で日常的なものでは満足しない、という動物にはない好奇心を持っている。そしてそれを追求する手段も手に入れている。科学や技術というものもその1つであろう。性的好奇心もあり、闘争本能から来る闘争への好奇心もある。子どもですら、ピストル型の水鉄砲を好んで使う。相手を懲らしめるためでも、痛めつけるわけでもないが、これらの遊びも闘争本能から来ていると考えられる。そして大人になると、人によっては銃器に強い憧れを抱く人もおり、米国では銃器が規制がほとんど無い状態で、スーパーで売られている。それが米国における凶悪犯罪の原因の一端になっていることは明らかであるが、それでも人間はそうしたものを手放せなくなっている。

  未来世界ではこれらの本能を満足させながらも、強固な規制によって制御をせざるを得ないだろう。そこで人格点制度を応用し、人格点が高ければ本能を満足させる機会を多く得られるというようにするだろう(20.8.30「未来世界における人格点制度」)人格点制度は制御機能として働く。悪い本能を満足させようとすると、人格点は下がり、良い本能を満足させようとすると人格点は上がる。二律背反的な側面を持っており、それが制御機能に繋がっている。肉体闘争について言えば、それがスポーツであれ、格闘技であれ、人を興奮させるという点では共通しており、それは人間のストレス解消の手段にもなり得ている。未来世界でも、古代ローマと同じような格闘技が繰り広げられる可能性はあるだろう。だがそれが度を過ぎたものに発展した場合、恐らく未来世界はそれを悪い本能を刺激するものだとして、限度以上の格闘技を禁止する方向に行くと思われる。

  現代はその意味で、古代ローマのように過激でもなく、丁度よい程度の格闘技で留まっていると思われる。未来世界でも、現代以上に過激なものが出てくる可能性は低いのではないだろうか。だが逆に言えば、現代の人権主義や平和主義がこれらの格闘技を禁止する方向に動いてはいないことから分かるように、これらの人間本能に基づく肉体闘争の限定的模擬闘争は許されると思われる。それはある意味で、人間が社会という掟の縛りの中で感じているストレスを、一時的に解放する手段になっているからである(20.11.30「ストレス論」)ほとんどの人がスポーツを好ましい趣味としており、それを禁止する動きや思想は無い。そして事実、スポーツは人間からストレスを解消する手段となっている。未来世界においても、スポーツや肉体闘争の持つこうした善なる働きを認めていくことになるだろう。ただそこに、人間感情としての限度があることは確かであり、不快や嫌悪の感情をもたらすものは、未来世界でも制御の対象になるであろう。

  もう一つ、イベントや興行としてのスポーツなどが制御の対象になる可能性があることだけは指摘しておきたい。特に、オリンピックのように、商業的でかつ莫大な費用が掛かるイベントは、未来世界では制御の対象になることが考えられる。というか、そうしなければならないだろう。その理由は、オリンピックが商業的であることだけではなく、それによって特権階級を生み出していることがある。さらに、そのイベントが莫大なエネルギーと資源の浪費につながっており、国際的であることから、人的移動もあることが理由である。未来世界では娯楽のためのエネルギー・資源の浪費を抑える方向に向かい、外国への旅行も禁止される。オリンピックは形を変えて行われることになるだろう。そしてIOCなどの特権階級は無くなる方向にいくだろう。そしてそれは可能であると思われる。

(3.5起案・起筆・5.4終筆・5.6掲載)


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