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【時事評論2023】

想像と実在

2023-12-31
  NHKが2022年9月22日に放送した「コズミックフロント」というシリーズ番組の「相対論 vs 量子論」において、現代物理学の問題点の1つをある程度概念的に理解することができた。その番組において示されたのは、アインシュタインの示した相対論と量子論の相克を、最近のホログラフィック理論が超弦理論を駆使することで、調和させる切っ掛けを作ったということであった。だがまだ大統一理論が完成されたわけではない。だが2大物理学の深い溝が埋められることで、新たな「認識の問題」が生じてきている。それは宇宙も我々が見ている現実の世界も、この理論によると2次元世界の反映となってしまうからである。そうしたことは想像することすら素人には不可能だが、ここには科学世界の数式の意味とそれから裏付けられる実験成果の意味を、我々素人集団がどう受け止めるべきなのか、という「認識の問題」が生じたとノムは理解した(11.20「人間も物質も実在していないとする現代物理学の考え方」・11.23「人間生活から乖離した、人間を滅ぼそうとしている科学」)

  たとえばゾウを知らない盲目の人に、ゾウを触らせることでその実在を認識させることはできる。だが数式を知らない素人に宇宙の法則を理解させることは多少の困難が生じる。科学界が実験などを通じてそれを証明したと宣言すれば、素人はそれを納得するしかない我々はそれを理解したのではなく、受け入れたのである。では我々人間が、数学的に言えば2次元の平べったい実在だと科学が証明した場合、我々素人はそれをどう受け入れれば良いのだろうか。それを証明するかもしれない実験がこれから行われようとしているようだ。ここで我々は、実在と思っていたものが想像から生じたものであるという事実を受け入れなければならないかもしれない時代に生きている、という現実をもう一度知らされることになるのかもしれない。

  以下では上記番組を基に、科学が世界をどう解き明かしてきたかを振り返り、物理学の現状を多少理解したいと思う。そして、我々は想像の中に生きているのか、現実の中に生きているのかをもう一度確認しておきたいと思う。以下の話は多少難しい内容を含んでいるので、できるだけ概念的に説明したい。それが間違った理解である可能性もあるが、できるだけ科学的知識に沿っていきたい。

  古代において、人間は天空に星空を見ながらも、宇宙というものを想像できなかった。地が絶対の位置であり、天が地を巡って動いており、昼と夜が作られると考えていた(天動説)。だが前5ー4世紀前後のフィロラオスは既に別の考え方を示しており、前3世紀にはアリスタルコス地動説を唱え、これは現代でも評価できるほど科学的であった。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまでの1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかったという。16世紀にコペルニクスは、1543年に没する直前、彼の思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。1年を365.2425日と算出している。ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって慣性の法則を発見した。17世紀になって、アイザック・ニュートンがこれらを運動の法則として体系化した。いわゆる「ニュートン力学」である。

  ニュートン力学は20世紀になってアインシュタインの「相対性理論」によってより補完され、新たな認識が確立した。それは時空の認識であるとともに、時間の絶対性が崩れ、光の速度を絶対化した。相対性とともに絶対性というものが存在することが証明された。また「アインシュタインの式」により、物質とエネルギーは等価(本質的に同じ)であるという認識が生じた。後にこれは原爆の開発に繋がった。アインシュタインの時代に量子力学が誕生した。元々原子の電子の軌道は量子化されていることが分かっていたが、量子力学はさらに原子が素粒子によって作られていることを証明した。さらに量子論は宇宙の誕生の解明に用いられるようになり、多くの観測結果を説明できるまでになった。だが未だに宇宙の物質とエネルギーの90%以上を占めるとされる「暗黒物質(ダークマター)・暗黒エネルギー(ダークエネルギー)」の由来や正体を解明できていない。肝心な点が抜けたまま、物理学は理論としての発展を続け、今や「超弦理論」から始まって物質の実在を疑う「局所実在論否定」や「多宇宙論」、「ホログラフィック宇宙論」も登場している。

  ここに至って人間は、人間が認識してきた世界を実在しない情報の反映であるという理解をし始めた。自分自身の認識よりも、数学上の仮説に過ぎない理論を正しい、とし始めたのである。ではそれらの理論が、我々の認識(観測と言ってもいいだろう)の共通性を説明できるのかというと、そこまではまだ議論は進んでいないようだ。Aという物質の存在を多くの人が証言したとしても、そこには物質は存在しておらず、ただ情報が反映されただけであるという説明によって、これらの証言は一蹴されてしまうのである。ある意味で、現代物理学の理論の理解は「想像、ないしは妄想」であろうと思わざるを得ない

  では人間はどちらの説明を受け入れるのであろうか。物質の実在(我々がここにいるという認識)が否定されてしまったならば、我々の生活も政治も意味がないものになってしまい、善悪の判断基準も失われる。そうした哲学のない現代物理学の主張を受け入れている人は恐らくいないだろうと思われる。自分という人間が、単なる情報の反映に過ぎず、実際にここには存在しないのだとしたら、なぜ道徳を論じ、政治を論じる必要があるのだろうか。原理的に言って、人は何をしても許されるということになる。そうした暴論を受け入れる人はおらず、政治の世界でもそうした暴論に立って政策を論じている政治家はいない。ノムには現代物理学の仮説は空疎なものに思われる。そして特に主張したいのは、もし科学によって生み出された核兵器により、全人類が絶滅に追いやられたとしたら、一体科学は何のために人間によって生み出されたのか、という問いが生じるだろう、ということである(尤も、その問いをする人間はもう既に存在しないのだが・・)。科学を生み出した主体である人類が存在しなければ、この項で議論している内容も無意味なものとなる。事象が単なる想像(幻想) であるのか、それとも実在であるのか、という議論は、我々の思考の意味や意義を問うことになってきている

(22.9.23起案・起筆・23.12.31終筆・掲載)


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