本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2023】

人間も物質も実在していないとする現代物理学の考え方

2023-11-20
  最近の「日経サイエンス」の記事では、我々が見ているこの世界は実在しておらず、情報の反映に過ぎない、という過激なことが書いてあった。これまでにも同様の趣旨の記事は多く出ていたが、改めてその考え方に違和感を覚えた。ノムは科学者と議論するつもりはないし、その資格も無いが、余りにも我々の感覚とかけ離れた主張を現代物理学がするに及んで、市民として抵抗してみたくなった。以下では飽くまでもノムの素人としての実感を述べたい。なおノムは実のところ量子力学の語ることが全く理解できておらず、ノムの理解に間違いがあることを恐れるが、可能な限り「日経サイエンス」の記事を引用しながら、現代物理学の経緯を辿ってみたい。

  アインシュタインが相対性理論を発表して以来、それまでに無かった「観測者」という概念が生まれた。事象と観測者の位置関係が重要となり、相対的に離れたり、近づいたりすると観測結果が異なる。また時間というものにもこの相対運動が影響する。たとえばよく使われる比喩だが、スカイツリーの展望台に居る人と地上の人では、相対速度が異なるので、時間の経過が異なるという。寿命にも影響するという(実際上の問題はない)。そうした理解は我々に衝撃を与えたが、量子力学が登場してからは、当のアインシュタインもこれに戸惑ったという。「奇妙だ/神はサイコロを振らない」と発言したことは有名だ。量子力学ではさらに人間感覚やそれまでの物理学の定説を破る実験結果が次々と出てきた。最大の謎は「量子もつれ」という現象であり、宇宙の端にある量子を観測すると、その反対側の端にあるもつれ状態にある量子の観測結果が決まる、つまり同期するというのである。情報が光よりも早く伝達されることを意味するのか、それとも観測という行為自体に問題があるのか、という疑問が出てきた。

  我々はリンゴを見た時、そこにリンゴがあることを確認する。誰もリンゴの存在を疑うことはなく、自分の観察を疑うこともない。だがそれは物理学の世界では「局所実在論」という一つの仮説に基づく観察に過ぎないという。我々の常識では、「物体は誰かがそれを測定しなくても、そこに実在し、ある決まった物理的性質の値を持っている/ここで起きた事象がはるか彼方の物体に瞬時に影響を及ぼすことはない」と考えている。いやそれがかつての物理学会の常識でもあった。1935年にアインシュタイン、ポドロスキー、ローゼンの3物理学者は、「量子力学が "実在" についての理解しがたい想定をもたらす」と主張する論文を共同で発表した(「EPR論」と呼ばれている)。彼らは「隠れた変数」という概念を取り入れて、量子力学的実験の結果を説明しようとした。1964年にジョン・ベルは数学的な不等式を提唱した。局所実在論に、「測定者は測定対象を自由に選ぶことができる」という自由意志の過程を加え、自由意志と局所実在論の両方が正しいとしたら成立する不等式を提出したのである。だが同時に、量子力学から予測される「量子もつれ」がその不等式を破ることをも理論的に証明した。

  その後半世紀にわたり、数々の実験が行われ、ベルの不等式が破れている(成立しない)ことが分かった。2015年に「ベルの不等式の破れ」を証明する確定的実験が行われ、現代の物理学では、局所実在が否定されてしまった。我々の世界はもはや局所実在論で理解することができなくなったという。つまり「そこに物がある」という実在の事実は否定された。

  1.物理的性質の実在・2.事象の影響の局所性・3.観測者の自由意志、の3つの要素のどれか1つ以上が間違っている可能性があるという。それが間違いだとすると、局所実在という考え方は成り立たなくなる。実験結果を踏まえて、どうしてもどれかを否定しなければならないとしたら、ノムならば2.の事象の影響の局所性を否定したい。もし光速を超える情報伝搬があり得るとしたら、それはアインシュタインの相対論を否定することになるが、それはそれで学術的進歩なのではないだろうか。経験科学で云われてきたテレパシーという現象も、この超光速性で説明できると思われる。だが他の実験では、観測者の自由意志を否定する結果が得られているという。すると残りは、物理的性質の実在を否定するかどうかであるが、多くの物理学者は「物質の実在」を否定しているという。科学の立場からすると、実在を放棄するのが一番自然なのだという。

  芝浦工業大学の木村元は「自由意志は存在するか」とか、「物体は実在するか?」といった問いは、「本来は科学の対象にはなり得ないものでした」と語る。すなわち哲学で語られるような問題が、今、科学によって根源的な問いとして迫ってきている。木村は自由意志はあってほしいと考えているが、宿命的的運命論も否定はできないという(20.11.7「運命論」)。物の実在についても、そもそも科学では語れない、とまで言う。

  これらの科学者の議論を聞いていて、ノムは「拡大解釈」という言葉を思い出した。何か1つの法則なり原理なりを見つけると、それを全ての事象に当てはめたくなるのが人間の常であり、極微の世界で発見された事実が、マクロな世界でも同様に事実であるとされてしまうことが多い。ノムはこうした「解釈」の問題において、「スケール理論」という考え方を持っている(20.12.19「事象の集合論」)。これについてはどこかで書いたはずであるが、情けないことに自分でも探し出せなかった。事象の理解にはスケールに応じた法則や原理が必要であるという考え方である。現にほとんどの工学はニュートンの力学の法則に基づいており、微視的事象(原子・量子レベル)や生命現象、超常現象に対しては一部量子力学的解釈も有効であるが、我々の日常生活では量子力学はほとんど役に立たない。物理学者は実験と理論、そして数学から、あらゆる宇宙の成り立ち・構造・物質の生成と進化、などを部分的に解き明かしてきた。それは日常の感覚の範囲で受け入れ可能な素晴らしい成果を生んできた。だが物質や人間、さらには宇宙が一種の幻想(「ホログラフィック宇宙論」など)であるとまで拡大解釈するまでに至っては、もはやこれらの成果は我々にとって何の意味も持たなくなってくる(8.7「宇宙の誕生」)

  そうした考え方から、ノムは現代物理学者の唱える「局所実在論否定」、すなわち物質や人間の存在を否定し、それらは単なる情報の反映に過ぎないとする考え方を拒否する。それが間違いだとまでは云わない。だが人間の実在にとって役に立たないものを評価する意味がない、と主張するのである。物理学者が一般市民の感覚から離れていくことに危惧を覚える(22.8.27「未来世界の市民研究」)。その姿は「科学」という呪文に掛けられた狂信者のように見える。科学に全ての価値を置き、それが真実だと疑わないからである(6.3「科学論と科学技術論」)。これまでに科学的理論が何度も覆されてきたという事実を見ずに、現在の最先端の科学の知識をひけらかそうとする態度を見ていると、市井の民を愚弄しているのではないか、とさえ見える。これらの現代物理学の理論からは、人間のあるべき姿や最善の生き方は見えてこず、人間界の思想や哲学にもなり得ないのではないだろうか? そうした役立たずの理論から離れて、ノムはノムの生き方を求めていきたい。 

(11.20起案・起筆・終筆・掲載)


TOPへ戻る