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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2022】

正しい科学主義

2022-06-17
  科学という学問体系を統率する論理手法は、その実証性が極めて顕著であることから近代以降に大きな力を得てきた。だが一方で似非科学と称せられる一見科学的に見えるイカサマも幅を効かしており、多くの専門家でさえ、科学の厳密性を無視して推論による自論を述べているため、予想結果が無残なものになっていることは近年明らかになってきた(3.15「識者・専門家の予想はなぜ外れるのか?」)。つまり、専門家本人は科学的な推論をしているようで、重大な論理の飛躍を行っていることが自覚されていないのである。こうなるとイカサマ師と専門家は同程度の過ちを犯しており、前者は意図的であるが後者は無意識に行っているという違いだけということになる。

  事程左様に「正しい科学」という考え方自体が極めて理解困難なものであることはお分かりいただけるだろう。問題は、科学の依って立つところの論理性を、誰が判断するのか、という問題に行きつく。学会でさえ、論文の正当性を認めるか認めないかでもめることがある。ましてや評論家の言が巷で批判の嵐に巻き込まれてしまうこともある。だが大雑把な捉え方をすれば、科学論文の大多数は論理的に言っても正しいし、厳密な論考をしているのであり、それによって科学は進歩し発展してきた。つまり大多数が科学は正しい論理を展開していると考えている。だが科学が、政治・経済・司法・歴史という文系と呼ばれる分野に適用されると途端に百家争鳴になってしまうのは、これらの分野が複雑系であるためであろう(21.1.19「複雑系の実験の難しさ」)。前提条件が少しでも異なると、科学的に導き出される結論も大きく揺らいでしまうからである。「科学的社会主義」というものがあるが、これは最も科学からは遠い、イデオロギーの世界になってしまっている。

  そこでノムは、思考が科学的かどうかを判断するには、判断者の立場や利益関係を持たないAIを用いるのが最も相応しいと考えている。たとえば物理学会の専門AIは、これまでに学会に報告された全ての論文を記憶し、それぞれの論文を論理性(論文の「内容」や「主張」ではない)から評価し、評価点を示したうえで、新たな論文が既報の論文とは内容的に異なることを判断し、その独創性を評価するようにしたらいいと考える。他の学会の論文にまで記憶を及ばせればなおの事良いが、それは徐々に段階的に進めれば可能であろう。まずは学会関連でAI評価の有効性を確認し、もし有効であると世が判断したならば、それを政治・経済・司法・歴史の分野にまで拡大していくべきであろう(20.12.15「AIによる歴史検証」)

  現在は専門家や学者ら自身が立場を持ち、発言が利害関係を生むことがあることから、彼らは正しい発言すらしていないというのがノムの評価である。つまり世の反応を気にし、大勢に媚びる形で無難な事しか言わないのが常である。たまに池上彰のような異人が出現し、メディアとは異なった視点から正論を論じることがあると、一躍脚光を浴びてしまうほど、世の通説というものは偏向しているということであろう。だがその池上も、忙殺から逃れて執筆に集中したいということで自ら発言を封じてしまった。その後時々論説を寄せたりしているが、今でもその意見は貴重である。メディアから圧力があったのかどうかは分からないが、もっとこうした論客が増えてほしいというのがノムの願いである。

  世の常識というものは、意外に科学性を持っていることが多い(5.19「常識は作るべきもの」)。それは長年の検証を経てきているからであろうし、その社会に特有な状況の中で最も合理性を持つからかもしれない。だが常識がイデオロギーという固定観念になってしまうと、それは弊害以外の何物でもない(21.6.21「イデオロギーの本質」)固定観念は他の思考を排除してしまうからである。正しい科学的思考はあらゆる可能性を排除しないその可能性は確率で表される(21.6.13「確率論」)。常識が60%以上の支持を集めているのであれば、それは合理性があるということになる。ただその合理性は民の利益の観点や経験知から生み出されるものであり、必ずしも真理を意味しない。その意味では常識が科学的であるということにはならないことは明らかである。

  ここで「正しい科学主義」というものを考えてみたい。主義というからにはこれ自体がイデオロギーであることを示している。つまり科学に信頼を置くことは価値があるという考え方であり、それ自体が固定観念であるとも言える。よく使われる「絶対に〇〇である」という言い方は、まるで科学的ではない。絶対という言葉はゼロか100%を表しており、科学の世界では確率的に物事を判断しなければならないことから、こうした言葉は使ってはいけないのである。確率的に物事を表現するということは、曖昧な表現とは異なる。確率的な表現は曖昧ではなく、れっきとした科学的計算から出てくるものである。確率50%は「どちらでもなく、どちらでもあり得る」という曖昧さを意味するが、確率60%は有意性を持つ。であるから議論が生じた場合、AIにその論理性・有効性を判断させ、確率的に有意性と優位性を判断させることは意味があるだろう。

  ノム思想では、科学的に証明されたいくつかの原理や法則を用いて、事象を考えようとする(20.9.7「ノム思想(ノアイズム)とは何か?」)。上記の「確率論」もノム思考では重要な項目となっている。つまりノム思想は特定のイデオロギーを述べているわけではなく、思考の有り方を述べている。そうした際に、正しい科学主義という考え方を持たなければ、ノム思想上の議論においても百家争鳴が生じてしまうであろう。もしそうしたことが生じた場合、ノムは立場と利害関係を持たないAIに議論を評価してもらうのが一番賢明であろうと考える。勿論AIは初期に於いては未熟性が出てしまう。長い期間の検証を経ていかなければ、最初からAI判断を信用するわけにはいかない。だがAIの判断を賢人や市民が支持していけば、それはやがて「AIの判断ではこちらが優位」という常識が根付くことになるだろう。

  正しい科学主義という考え方は、物事や事象を判断する場合に、感情的なものを排し、論理を重視するということに他ならない。特に排除しなければならないのは個人的感情・感傷であり、ニュースではしばしばこれが取り上げられる。ウクライナの1市民の悲劇を語らせて同情を集めようというメディアの魂胆がそこには見える。それよりもプーチン戦争の本質を報道する方がより科学主義に立っており、大局的視点がそこに求められるはずである(3.21「プーチン戦争に学ぶ教訓」)「大所高所」から判断して正しい報道をすることがメディアに求められており、個人的感傷を伝えることによって、それが時間的にも損なわれていることにもメディアは気付くべきであろう。ノム世界においてこの科学主義を如何に適切に適用させていくかは、これからの大きな課題となるだろう。ノムはこれまでの論で科学主義に立った論説を説いてきた。それが妥当かどうかを現代の人々の受け止め方に見ることはしない。つまり理解されることを期待はしない。未来を根拠に現代を論じているノムの視点の置き方を理解する人はほとんどいないからである。だが稀にそうした人が現れれば、ノムは人類の未来に希望が持てるであろう。


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