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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

仕事の遣り甲斐

2021-12-18
  前項で「仕事」について書いていて、果たして仕事というものは自分がやりたいことをすべきなのか給料などの条件が良いものを選択すべきなのか仕事自体に意義があると考えて選択すべきなのかを考えた(12.17「働きの仕事選択 」)。どうも筆者の場合は前項で述べたように偶然に決まった職業であったことから、むしろ選択の余地は無かったと言った方が適切である。なにしろ諸事情があって学生結婚したために、求職に焦っていたこともあったし、教員になれるはずがないのに、教員免許が要らない教員という仕事があるということで、元々教えることが好きだったこともあって、渡りに舟という感じで飛びついたのである。だが結果的にはこの就職は実に幸運であった。公立校の教師と違って自由で好きなように教えることができたし、なによりも1年の4割以上の休日・休暇を取れたからである。趣味三昧になったのも、そうした好待遇があったからである。

  では仕事自体の意義があったかと言えば、それは期待以上のものがあり、教員という職業は曲がりなりにも世間から尊敬の対象になっていたし(当時は競争率が高かった)、社会に貢献するという意味でも最高のものであった。親戚の相続に関与して税務署に相続人の相続書類を提出したとき、最初はなぜ親戚の相続に関わるのか、いぶかしげに聞いていた税務職員が、私が「職業は教員です」と言った途端に態度を変え、書類はスムーズに了承された。世間的な信用の高さを実感した瞬間である。だが昨今は事情が全く異なってきており、教員の不祥事が多発しているだけでなく、大学の総長までもが不正な賄賂を受け取っていたことが明るみに出るなどもあり、また公立校の教師のオーバーワークがひどい時には週に130時間を超えるなどしている実態が世間に知れ渡り、教員応募はほぼゼロ状態であるとも言われ、採用側ではレベルを下げてまで求人に苦労しているそうだ。隔世の感がある。

  そこで考えたのだが、仕事に対して人が遣り甲斐を感じるのはどういう条件が揃ったときなのだろうか、という疑問が湧いた。おそらく、①仕事に見合った給料を貰っている・②仕事が世間から高く評価されている・③仕事自体が自分に合っている・④仕事自体が面白い、などがその要件となるだろう。

  最初の①給料の問題だが、筆者はほとんどその額について興味を持って他者と比較したことがない。そもそも給与票をまともに調べたこともない。だが記録魔であることから、就職してからの給与一覧表や、小遣い帳・毎月の家計簿などは付けてきた。統計的に変動を調べるのは面白かったが、その額が大学同期の友人と比べて高いのか低いのかさえ知らなかった。つまり生活できればそれで十分という意識で働いていたことになる。②の世間評価の問題だが、これについてはある程度自意識の中にプライドというものがあり、それを満足していた自覚がある(20.9.26「筆者の仕事の自己評価 」)。特に後半に大学勤務になってからはそれを強く感じた。③の仕事との相性は、教えることが好きだったこともあって、自分にぴったりだと感じていた。また上司からの命令というものがほとんど無く、授業以外の行事の役割分担表が回ってきてそれに従う程度の拘束性はあったが、5時の終業後に何時に帰るかも自由であったし、残業を強いられたことも無かった。年間の就業日数が6割弱であったことも、そして長期(最高で連続30日少々)の休暇が春夏秋冬にあったことも最高の幸せであった。お陰でかなり海外旅行を当時は楽しめた(現在は海外旅行を環境問題の観点から否定している)。④の仕事の面白さという点でも申し分なかった。そのため残業手当が出なくても、学生と研究会をやっていたので、夜9時まで学生らと楽しく研究活動をしていた。これは本来の仕事外の趣味の領域であるとも思っていたのである。

  こうした特殊な経験しかないため、一般の公立校の教員の置かれた苦境を理解できていないのかもしれないが、想像だけはできる。もしかしたら、公立校の教員や会社員になっていたら勤まらなかったかもしれず、転職もしていた可能性は否定できない。一般に上記4条件の中で最も重要なのは、③の自分の性格との相性なのであろう。適性という言葉は能力も含めて幅広く検討されなければならないが、相性が良い仕事だと思えればそれ以上言うことはないのであろう。多くの人が苦労しながら薄給に耐えているとも思いたくないし、生活さえできていれば、他者との比較をせずに満足すべきなのだろうと思う。

  仕事で最大の問題は、上司や同僚との相性仕事のキツさ(残業時間)生活が苦しいほどの薄給、であり、転職する場合はその他にも赴任地への不満などもある。筆者はこれらの問題を感じたことがないこともあって、適切な助言を書く資格もないが、ただ一つだけ、仕事の遣り甲斐を感じるかどうかが、その人の仕事に対する熱意に表れると思うのである。またそれさえ感じることができれば、その仕事を離れることには慎重であるべきであろう。だが現代は徐々に仕事の意義は給料の多寡に置き換えられつつあり、昔のような「辛抱・我慢」を説く上司も居なくなりつつある。それはとても残念なことであるが、時代の為せる業であることから、「それもまた運命」と潔く諦めるのも肝要なことだろう。

  そう言う私にも試練はあった。専門学校から大学に所属替え(事実上の左遷だったのかも)を命ぜられたときのことである。片道、新幹線を使って3時間という信じられない通勤を強いられることになった。だがモノは考えようであり、試しに通勤経路と時間を試したところ、行きも帰りも全て電車に座っていけることが分かり、また新幹線使用だと通勤費が月に6万円自己負担になることも分かったが、それはアパート収入でカバーできたし、何よりも自分の仕事が車内で出来ること(新幹線内のPC仕事)、片道1時間(往復で2時間)の睡眠時間が取れることが確認できたことで、転職することは全く考えなかった。そしてこの新幹線での時間が執筆に充てられることになり、現在のブログにも繋がってくることになった。「不幸を転じて幸となす」の典型事例となったのである。

  未来世界では、適材適所を優先して、年功序列という方式は取らない(9.11「適材適所 」)。それによって人事に多少の波乱や不満も生じることになるが、それよりも人格点を重視するため、人格の優れた人が指導者になったり、最適な仕事が優先的に回されることになり、悪意を持つ人はたとえ能力が高かったとしても排除されるか、退けられる(20.8.30「未来世界における人格点制度 」)。筆者の現在の職場で有能な高齢の女性を2人辞めさせたことがある。かなり長く勤めたにも拘らず首にしたのにはそれなりの理由があり、特に新人をいじめたりして辞めさせるように仕向けたことが原因であった。それでなくても求人難であることから、これは仕事の能力以上に重要なことである。それは自分の居場所を守るための行為であったのかもしれないが、より高い視点で後輩を指導できなかったという点で、人格に関わることであった。未来では競争が無くなることから、現代の能力主義から人格主義に移行し、和気あいあいと仲間と仕事をできるとともに、決断の適切さとの調和が取れている人が昇進することになるだろう(20.9.7「人間は「競争」、および「競争心」を克服できるか? 」・20.9.16「競争はいつ芽生え、何をもたらしたか? 」・1.31「良い競争と悪い競争」)。そして何よりも、指導者には、仕事の遣り甲斐を感じている人になってもらうのが最善であると考える(20.8.22「指導者の在り方 」)


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