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【時事評論2021】

価値基準と価値評価

2021-04-11
  人間は思考を持ったが故に、物事に価値という概念を持つようになった。その基準は人間個人としてのものから、国家としての価値基準にまで及ぶ。それはある意味では普遍的なものもあるが、独自のものも多く存在し、特に未来世界では価値基準が現代とは全く異なるであろう。そこで現代に至るまでの価値基準の変遷を考察し、そこに普遍的なものと独自的なものがどのように存在したかを検証し、現代における価値基準の評価を行い、未来世界の価値基準についてもその妥当性を検証してみたい。

  人間が組織を持つようになる以前の、いわゆる自然人としての存在であった頃、人は生きることに最大の価値を見出していたと考えるのは当然であろう。毎日の生活の糧(食料)を探し、時には野獣と闘ってそれを得るのが精一杯であったに違いない。だがそのような原始的生活の中にも想像力(創造力)から出てくるロマン(夢想的ストーリー)を抱いたようである。それは自然界への畏怖から生まれたと想像されるが、星々を眺めることや火の持つ幻想的な揺らぎにもロマンを作り出していたのだろう。そうした生活の中に仲間との連帯が生まれ、祭祀的要素が誕生してきた。彼らは仲間との連帯に価値を置き、自己犠牲をも厭わないほどに宗教的理念を持つようになっていった。

  だが人間生活が集落を中心とする組織的なものになると、集落に生じたが重要な価値基準となる。それはやがて国家のような大規模な集団に発展して、掟は成文法となり、が価値基準となっていく。それは現代に至るまで変わらないが、法が個人の持つ独自の価値基準と相反するような場合には、人は自分の価値基準を優先することが多かった。表向きには法に従うような振りをしながら、人は自分の矜持・信条というものを持っていたのである。その場合、は国家という組織のための守るべき基準であり、矜持は個人が持つ独自の基準でありながら、一般的には普遍性を底辺に持っていると考えるのが妥当であろうと思われる。それを筆者は「道理」と名付けるが、道理は人間が普遍的に持つ価値基準であると考えるのである。

  中国は今盛んに「法治主義」を唱えるが、それは国家のための法であって、人間に普遍的に存在する道理の観念とはかけ離れている。そのため中国人は、国家が発展し、自分達が豊かになっていけば、道理よりも法を尊重するという表向きの姿勢を持つようになる(20.4.9「全体主義の優位性 」参照)。だが一旦、国家が傾いたり、自分達の生活が脅かされるような事態になれば、本来の道理の意識が頭をもたげ、国家に異議を唱えるようになるであろう(20.11.27「権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ」参照)。それは中国に限ったことではなく、西欧の民主主義についても言えることであり、西欧が発展してきた過程においてはそれが非常に高い価値を持っていたが、いざ中国に追い越されそうになるや、民主主義に対する懐疑というものが生まれつつあるというのが現状であろう(20.7.16「自由主義と民主主義の破綻」参照)

  価値というものはその時代によって変化していくものであるが、道理というものは人間の本性の中にある普遍的なものであるため、それほど時代によって変わるものではない。そこで人間が歴史上持ってきた価値というものがどのようなものを指すのかをまず探ってみたい。筆者が想像するに、①名誉・②社会的地位・③カネ・④忠義心・⑤信用・⑥仲間・⑦知識(情報)、などが思いつく。

  ①の名誉が最も価値が高く、それはまた広く庶民にも得る可能性があるものであろう。たとえば表彰されることは誰にでもその可能性があり、高いレベルの資格を得ることもこれに準じる。試合などにおいて優秀な成績を収めることもこれに準じる。多くの人は、まず社会的な名誉にその価値を認める傾向がある

  の社会的地位は名誉にもなり得るものであるが故に2番目に価値の高いものであることは、古代から王が絶対的権威を持ったことからも分かることであり、現代では出世に対する執着心が人間にはあることからも分かることであろう。だがこれは誰にでも得る可能性があるわけではなく、その意味では1番目に価値があるとも考えられる。

  ③のカネに対する価値意識は、カネが大きな力を持っていることから地位の次に価値があると考えるからである。たとえば賄賂などはその一例であり、贈答という行為もその延長線上にある。人は古来からカネを貰って喜ばない人はいなかった。現代ではその原始的価値が法規制によって弱められた結果、逆に人はカネに執着することが少なくなり、高度に精神的に高みにある人はカネを忌まわしくさえ思う場合もある。つまりカネの価値は時代によって弱められてきたことは確かであり、未来では最も価値の低いものになるであろう。

  ④の忠義心に対しては多くの国や時代で庶民がこれを高く評価し、権力者もこれを部下に求めた。日本で「忠臣蔵」が高い人気があるのも、主君に対する家臣らの忠義の心を高く評価しているからであろう。

  ⑤の信用というものは社会生活を営む上で最も必要とされる要素であり、その信用の上に立ってさまざまな交際・取引・交渉がおこなわれている。誰もが求める高い価値であると言えよう。

  ⑥の仲間の価値であるが、人間が社会的存在である限り、家族・友人・同僚などの仲間を如何に多く持つかが社会的信用にも繋がっている。つまり人は仲間というものに大きな価値を感じている。だが中には不幸な境遇から、その仲間をあまり持てない人もいる。だがそのような人も仲間が欲しいと心の中では思っているのである。

  ⑦知識(情報) の価値については言うまでもないことだが、順位としては低いと筆者は思っている。すなわち知識に過大な価値を置く学者らやメディアの人々らがいる反面、知識に依存せずに経験で世を渡る人もいるからである。これについては人によって価値の置き方が大きく異なる。

  次に価値の評価について考察してみたい。その評価を誰が行うかによってピンからキリまで評価結果が異なることが予想される。そこでこれを評価するには基準点を設けなければ話が進まないであろう。筆者はその基準を高次レベルに置きたい。すなわち基準点を高次のものから順に並べると、①地球レベル>②国家レベル>③地域レベル>④個人レベル、と分けた場合、高次レベルで評価した結果に大きな価値を与えるというように考えたい。たとえば、某スポーツ選手がオリンピックで優勝したことを例に挙げてみよう。これは地球レベルから評価するとマイナス評価となる。なぜならば、その栄誉を得るために多くの時間とエネルギー・資源を費やしているからである(筆者は特定の国に多くの人々が集まって行われるオリンピックには反対の立場をとっている)。だが国家レベルでは最高の栄誉とされ、それは③・④も同様である。つまり現代で大きな価値を持つ金メダルは、未来世界ではその価値は失われることになる。

  以上の議論を基に、項を改めて人間事象の価値の評価を行ってみたい。多分相当面白い、画期的なものになると予想される。


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