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【時事評論2020】

権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ(3177文字)

2020-11-27
  人間が神や王という権威の下にひれ伏していた中世というものは、非常に安定した統治が行われた一方、民はその権威主義の下で自らの意思や願いを打ち捨てられていたため、「暗黒時代」と呼ばれることもある。芸術の分野でまずその打開が図られ、ルネッサンス(「人間復興」とも呼ばれる)が始まり、自由への渇望が形になって表れ始めた。そしてフランス革命において王制が打破されると、その合言葉であった「自由・平等・友愛」がデモクラシー(民主主義) の標語となって世界に広がった。近代において次々と帝国・王国などが崩壊すると、新手の権威主義である「共産主義」が現れた。これはイデオロギーを権威とするもので、人(皇帝・王)から思想(共産主義)に主体が移っただけであった。デモクラシーを得たはずの西欧でも、民主主義という似非(えせ)イデオロギーが人々の目を眩ました。民は権力を選挙によって動かせる自由を得たが、それはメディアによって操作されるものであることを2回の大戦を経て学んだ。我々は現代が中世よりも良いと断言できるほど自信を持っているわけではない。
 
  果たしてイデオロギーとはどのようなものなのだろうか。筆者はこれを「固定観念」と呼ぶ。何かの理念を固定化することで絶対化し、それを普遍的な理念だと思い込むのである。歴史的に新たに生まれたイデオロギーに普遍的なものなどあり得るはずはないのである。中国でいま盛んに喧伝している「法治主義」というものはまやかしの似非イデオロギーである。法というものが権力者の解釈で如何様にも運用されているからである。これは「権威主義」を単に当たり障りのない言葉で置き換えたにすぎない。だが民主主義というものもいかにも民に主権があるかのように見せているが、その実、民に実権などあるわけもなく、単に選挙で実態をよく知らない有名人を選んでいるに過ぎない(11.2「選挙制度改革は急務!」参照)。王朝というものを形成しつつある独裁権力体制の北朝鮮が、朝鮮民主主義共和国を名乗っているなどお笑い草である。だが民主主義を絶対的・普遍的なイデオロギーだと思っている人が如何に多いかを現代は証明している。そしてその最大の矛盾は、民主主義が平和をもたらすと信じ込んでいることにある。だが民主主義はその根底にある矛盾から平和をもたらすはずはなかった。その矛盾は、①個人の権利を最大化したこと・②国家に主権を与えたこと・③自由を絶対・普遍な権利としたこと、などである。これらはどれも抗争・権利争奪を生み出すことは明らかであり、それはコンピュータによるシミュレーションで簡単に明らかにできるであろう(6.3「米国の暴動が示した民主主義・個人主義の劣等性」・7.16「自由主義と民主主義の破綻」参照)
 
  民の意思が最上の価値を持つと考えたのは、権威主義への反発から生じた反動であり、決して科学的に根拠のあることではない。民は自己利益最大化を目指す衆愚性を持っているため、多くの民が存在することから百家争鳴を生み出した。議論はまとまらず、結局、力(権威=国家主権・経済=カネ・軍事・メディア)の論理で物事は決まっていく(10.26「「議論の問題」を切る!」参照)。それが2度の大戦の原因でもあった。そして民は地球というより大きな領域の価値の問題を考えることができないため、公害や環境汚染をもたらした。また民の意思は自国優先主義に陥るため、歴史に戦争が無くなったことはない。トランプの「アメリカ・ファースト主義」は中国との戦争を惹き起こす前に、自国内に分裂・分断をもたらして自滅した。トランプは法を駆使して独裁を狙ったが、それが実現する前に選挙に敗れた。この選挙が民の良識を反映したものであったと考えたいが、バイデンの今後を見守るしか手はないだろう。だがバイデンは左派的思考を持つと言われているところから、今後アメリカに於ける国民の権利への強い執着に悩まされることになるだろう。銃規制すら出来ないというのが民主主義の限界を表している。権威主義への反動から生じた権利主義は様々な矛盾を露呈しているのである。
 
  システムを安定に保つために、科学では科学的原理に基づく手法を取り入れて調整を行う。入力(インプット=貿易収支などにおける黒字)が大きければ出力(赤字)を増やすようにしてバランスを取るのがその調整の一つであるが、競争原理の下では自国利益優先の姿勢を持つ主権国家は決してそのような賢明な方法を採用しない。それは貿易不均衡という問題を生み出し、国家間の紛争の種となる。権利を主張する個人も同様である。権利を最大限に威圧を以て主張することで、生活保護で外車を乗り回す無為徒食の暴力団が出てくるのは当然の結果であった。それは日本だけの問題ではないはずである。多くの政治家は大なり小なり権威を振り撒いて利を得ている。彼らの仕事に対する報酬を考えると、それは庶民から見て法外なものに見える。多くの政治家は金力で地位を得、それを回収するために権威を用いる。結局現代においても権威主義はのさばっているのである。
 
  合理的・道理的なシステムを構築したいと誰でも考えるが、価値基準を権力・金力・軍事力・情報に置いているかぎり不可能であろう(5.31「価値観の違いは経済には関係ないのか?」参照)価値基準を転換するには、これまでに評価されてこなかった善意・貢献を評価できる革新的な仕組みが必要である。それはしばしば触れてきた「人格点制度」によって可能になる(20.8.30未来世界における人格点制度 」参照)。それは未来のIT技術の応用によって実現可能になるものであり、これまでの世界では不可能なものであった。その考え方に基づけば、人は努力し社会に貢献して初めて権利を得ることができる。すなわち、権利の前に義務が存在するという当たり前のことが強調される。だがその当たり前のことが現代では形になっていない。至るところで努力なしに権利が与えられている。難民は避難地においてテント張り・清掃・道路整備・自治組織形成などに何の貢献もせずに、権利として保護を受けているようだ(そう見える)。生活保護者は自ら楽しみを放棄するという努力無しに、最低賃金に喘いでいる人よりも多くの支援を受けている。筆者の知っている人は生活保護によって自動販売機で飲み物を買い、ボーリングを毎日楽しんでいる。これらの矛盾は全て「権利」というものが法によって規定されており、それには義務が先行していないことによる。
 
  過去の権威主義は形を変えて現代に生き残った。それは古代から続く「競争経済」という仕組みが変わっていないことに原因がある。これをまず「調和経済」に変えていかなければならないだろう(詳細説明は省く)。そして近代に生じた新たな法律主義に基づく「権利」という概念が、その根拠もなしに法的に主張されることにより、多くの不条理や不道徳、そして矛盾を生み出している。「法律主義」は「道理主義」に変えていかなければならない。道理というものは多くの国民による常識から成り立つものであり、時代を超えた普遍性はないが、それこそ時代を反映した道理は成り立つことになる。但し、未来世界では衆愚による道理の誤りを防ぐために、「賢人政治」の形をとる。権利主義も道理主義に転換できる。誰もが納得する形で支援されるべき人が支援されることは当然であり、それを政治は最優先して探し出して対処すべきである。そのために政治家がいるはずであるが、彼らは自分の利権・所属党の利益だけを優先しているように見える。そのような政治家・党は無くてもよい(9.9「野党不要論」参照)我々は本当に困った人を救う政治、国家の繁栄よりも安定をもたらす政治、世界の成長よりも地球の環境を安定させる政治を望む
 
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