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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

人間の寿命

2021-04-10
  人間の寿命はおよそ120歳と言われている。だが神話や聖書の系図には500歳という記述もあり、まだ生物学的にもはっきりしているわけではない。『古事記』・『日本書紀』には神武天皇が137歳・127歳で没したと書かれているが、当時の「春秋暦」では1年を2年と数えていたので、半分の69歳・64歳とすれば納得がいく。記録のしっかりしている古文書では80歳程度まで生きた人もいたようであるが、縄文時代の平均寿命は20歳代、弥生時代で30歳代であるとされていることから、寿命は近代以降に大幅に伸びたことが分かる。医療と衛生状態が寿命を伸ばすのに大きく貢献したが、これからは生命技術が寿命を伸ばす可能性が指摘されている。だが本項では現状を基に、人間の寿命を個人個人がどう考えているかを問う試みをしてみたい。すなわち個人の意識の問題としてこの問題に取り組みたい。そのような試みがこれまでにあったということを聞いたことがないので、これもまた筆者のオリジナルな発想であると考えている。

  人が自分の寿命を意識するには、諸々の身体状況や生活状況を明確に記載し、それを指標化する必要がある。その意識はその時の状況によって変わるであろうから、10年ごとに指標化してその変化を見るというのも一興であろう。だが多くの場合、50歳代までは自分の寿命を意識することはほとんどないであろう。ごく一部の人は持病を抱えていて、長くは生きられないという意識を持つ人もいる。また50歳以降に心臓病や脳血管疾病などを経験した人は、自分の寿命を強く意識するようになる。そうした人が自分の寿命を予測するためにも指標化は役立つだろう。

  指標化にはどのような基準で老齢化を計るかが問題となる。それには、①身体的状況・②心理的状況・③社会生活的状況、の3点からの視点があると思われる。最も客観性があるのは①の身体的状況であるが、それも視点によってどのような点を確認するかで変わってくるだろう。筆者が最初に思いついたチェックポイントを挙げてみよう。

 1.毎日の食事を助けなしにできる
 2.排便・排尿を自分で出来る 
 3.2本の脚だけで歩ける
 4.直前に行ったことを思い出せる
 5.昨日のことを思い出せる
 6.家族の名前・親戚の名前を言える
 7.自分の名前・生年月日・年齢を書ける
 8.新聞や本を読める
 9.毎日なにかしらの運動をしている
 10.毎日誰か家族以外の人と会話している

  以上の質問に対して筆者自身が回答してみよう。1つの質問を10点満点で自己評価した場合、最高点は100点となるが、筆者の場合は100点であった。だが同世代の友人らを想像して評価してみたところ、おおよそ60点くらいになると予想される。筆者は異常に若いと自覚し、他の人もそう評する。自宅にある某社製の体内計で測ると、毎日の平均でおよそ12歳若いと表示されることからもある程度裏付けられるだろう。尤もこれはわざと若く表示するというメーカーの陰謀かもしれないが、素直に信じておきたい。他にも血管年齢を調べることができるそうだが、まだやったことはない。20年ほど前のことだが、骨密度の測定では80歳代の平均だとされた。だが筆者は全く気にせず、至って健康な毎日を送っている。

  だが上記の質問だけでは不十分だと考え、さらに質問項目を増やしてみた。より具体的で高度な内容にしてみたのである。

 11.歯は全部自前で歯医者には用がない(10)
 12.膝・腰の痛みは無い(8)
 13.老人性難聴・白内障などの身体的疾患はない(8)
 14.病院にはここ数年、病気で掛ったことはない(10)
 15.新聞・書籍の内容を十分理解できる(10)
 16.日誌などを要領よくまとめられる(10)
 17.人の名前や地名などを覚えられる(10)
 18.PCなど、高度な仕事をこなせる(10)
 19.毎日の生活に目標がある(10)
 20.他人と話すことが楽しい(10)

  これについても筆者自身が回答した点数を付記してある。合計点は96点であった(自慢しているわけではない)。たとえば要介護の人の場合、20点程度になることが予想される。ほとんど0点に近い人もいることだろう。以上の質問項目を自分で評価した結果が、平均(10点満点)で6点を下回れば老化の兆候が出ていると判断されるだろう。そして4点以下では既に社会的に問題が出てきていると考えられる。

  現代では自分のことが自分で処理できなくなっても、人は死ぬことも許されておらず、しかも延命治療を施されるため、その苦痛は本人にとっても介護する家族にとっても地獄となっている。果たしてそれは正常なことなのだろうかという疑問がここに生ずる。人は生まれてくるときは自分の意思とは関係なくこの世に生を受ける。だが死ぬような年齢には誰しもが意思を既に持っており、自分の死に方くらい自分で選びたいという願望が出てくるはずである。人の死を規制しているのは宗教的教義・倫理的観念・法律的規定であり、古来それらを超越した大義のための死の受容(殉教・戦争死)や死の選択(殉死・犠牲死)は貴ばれてきた。最近では「生きざま」だけでなく、語感は良くないが「死にざま」が問題とされるようになってきている。

  人間が長生きしたいというのは本能的に当然なことであり、それを否定したいとは思わないが、現代の医療技術の進化はとんでもない領域にまで踏み込んでおり、極端に言えば生かそうと思えばそれを可能にする技術が出てくるかもしれない。事実死体の冷凍保存というものがアメリカではビジネスになっているくらいであり、将来の復活技術が完成した時点で死体が生き返ることを期待しているという。筆者から見れば自然に反した愚かな行為であり、人間の傲慢さの極みであると思うのだが、それほどに不老不死の願望というものは古来から強いものであった。だが現代ではそれが寿命の延びというもので一部実現されてきたために、地球環境自体が悲鳴を上げ始めたのである(2.10「人間第一主義から地球第一主義への転換」・3.24「人口制御の視点の必要性 」参照)

  人間は本来死ななければならない存在であり、それが何時なのか、どうやって死ぬのか、ということだけが問題とされなければならない。基本的には人間が自分で自分の始末ができなくなったらいつ死んでも良いのであり、それを自分で決めることが重要なのである。病気や老化により自分の運命としての寿命を悟ったならば、自分で死を選択するという必要も出てくるであろう。現代ではそれは「安楽死」という形で一部の国で実現しており、未来世界では死の苦痛を取り除くという限定した意味合いではなく、人間が自分の死を自分の意思で決定するという意味合いで実現することになるだろう(20.11.8「安楽死をどう考えるか」参照)。だが寿命を自分で決めるというのは間違いであり、自然の摂理に従って、年老いて死ぬべき時が来たと悟った時にそれを決断し、苦痛を取り除くだけでなく、家族との別れの儀式や遺言を遺すなどの準備をして、幸福感に包まれて死ぬという方法を選ぶべきなのである(20.12.1「自然の叡智と人間の叡智」参照)

  この記事を書いてから2年以上経ったが2023年8月13日に、重要な参考記事を見つけたので追記する。

  生物がDNAに損傷を受けると、細胞自体がアポトーシスを起こすことがある。これを「細胞の自殺」と呼ぶことがある。少々難しい話になるが、細胞に発生したDNA損傷などのストレスは、アポトーシス誘導分子p53やアポトーシスを調節するBcl-2ファミリータンパク質を介して、ミトコンドリアの膜電位を変化させ、外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖され、ミトコンドリアの機能は低下する。さらに、ミトコンドリアの膜電位の変化は、ミトコンドリアからのシトクロムcの漏出も発生させ、アポトーシスへとつながる。シトクロムcは、細胞質に存在するApaf-1やカスパーゼ-9と結合して、アポトソームと呼ばれる集合体を形成する。これによって活性化されたカスパーゼ-9が、下流のエフェクターを活性化する。この後は、DNAが切断されて「細胞は自殺する」、というのだ。これは「プログラム細胞死」とも言われている。

  生物の寿命については「テロメア仮説」がある。真核生物の染色体の末端部にあるテロメアと呼ばれている構造があり、染色体末端を保護する役目を持っている。末端小粒とも訳される。テロメアは特徴的な繰り返し配列をもつDNAと、様々なタンパク質からなる構造であり、生物が年を経るに従ってその長さが短くなっていき、テロメアが無くなることによって細胞は死を余儀なくされるというのである。テロメアはその特異な構造により、DNAの分解や修復から染色体を保護し、物理的および遺伝的な安定性を保つ働きをする。テロメアを欠いた染色体は、細胞によって異常なDNA末端と見なされ、酵素による分解や、修復機構による染色体末端どうしの異常な融合が起こる。このような染色体の不安定化は細胞死(上記「アポトーシス」)や発ガンの原因となるという。つまり生物は寿命に達すれば、自然死や癌による死亡が避けられないというのである。

  こうした生物学上の寿命という制限がある限り、人間だけが不老長寿を願うというのは、やはり傲慢な考えという他ないだろう。

(21.4.10掲載・23.8.13追記)


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