【時事評論2020】
安楽死をどう考えるか(11.9完)
2020-11-08
【時事通信】の《国際》の2020年11月6日の記事に、「ニュージーランドが安楽死法合法化」というニュースを載せた。ニュージーランドで10月17日に行われた安楽死の合法化の是非を問う国民投票で賛成が65.1%であったことにより、既に議会が関連法案を可決していることから1年後に施行される。「尊厳死法」という法律は1994年からアメリカを中心に先進国に広まったが、安楽死は2001年にオランダで初めて合法化されて以降、ベルギー・ルクセンブルク・カナダ・コロンビアと続き、ニュージーランドは6ヵ国目となる。条件は18歳以上の国民が、余命6ヶ月未満となり、緩和が困難な耐え難い苦痛を抱えているなどの要件が必要とされる。最近はこうしたニュースが増えてきたが、日本ではまだ「安楽死」を論ずるほど議論は成熟していない。日本ではやっと「尊厳死」が知られ始めた程度に留まっているが、それは日本においては過剰なほどの「生命尊重主義」思想がメディア(特にNHK)を通じて流布されているからである。医療先進国であるはずの日本でなぜ安楽死がタブー視されているのか、そのことも含めて本項で議論してみたい。
筆者は2001年に「日本尊厳死協会」に加入した。この協会は1976年に150名の会員により発足したが、当時の名称は単に「安楽死協会」であった。当時アメリカでは「カレン判決」が出され、尊厳をもって死ぬ権利が容認され、 米カリフォルニア州では「自然死法」が成立していた。世界の流れに乗った形で日本の議論が始まったのである。だがその議論の中でも安楽死の道徳的・倫理的・宗教的根拠が得られず、日本人の生命観にも合わないと判断され、1983年に「日本尊厳死協会」と名を改めた。それ以来10万人登録を目標に運動を進めるとともに法制化を目指してきた。2002年に10万人に達して当初の目標は達成したが、その後の伸びは鈍い。筆者も20年近く会員のままであるが、会報では安楽死の議論は全く出ておらず、この会の中ですらタブー視されてきていることを感じる。もし日本に安楽死協会ができたら、そちらに移ることを考えている(4.27「人間の死生観と死の哲学」参照)。
そもそも尊厳死と安楽死の違いはどこにあるのであろうか。一般の人には良く分からない人が多いので簡単な説明を加えておこう。「尊厳死」は死が避けられないと分かった人に対して、その末期状況において生命維持装置などを用いた延命治療を拒否し(意識を失っていても会員であれば事前了解があると見做される)、疼痛緩和療法だけは要望すると言う考え方である。だが麻薬を用いた疼痛緩和はしばしば幻覚・錯乱(性的錯乱を含む)などの副作用があり、必ずしも言葉に表されたような理想的な死に方とは言えない。それに対し「安楽死」は死に至る病を前提として、患者があらかじめ死ぬ日を定め、まだ自分の意思がはっきりしている状態で医師の処方した薬剤により自分で開栓して死ぬという方法であり、苦痛はほとんどないとされる。投与から死までの時間は現在のペントバルビタールナトリウムを用いた点滴法では20秒ほどであり、いわば眠るように意識を失って死ぬのである。
なぜ医療先進国日本で「安楽死」が議論の対象にならないか、タブー視されているのかについて考察してみたい。筆者が考えるに、左翼思想家により「国民の命は大切」という思想がいつの間にか科学的根拠も無しに「人の命は大切」というようにすり替わっていったことにより、NHKなどは全国に「生命尊重主義」を喧伝してきた。だがそれは人間の命だけを尊重するという、自然界の掟からすると身勝手な非科学的思想であった。事実先日もデンマークでコロナ禍関連の理由から、養殖ミンクが1500~1700万匹殺処分されるというニュースがあったばかりであり、このところ豚コレラ関連でも数万匹~数十万匹が殺処分されるという、人間界で言えば「ホロコースト(大量殺戮)」が平気で行われている一方、米軍兵士2人が一人の少女を強姦したというだけで社会的な大デモが起こるという矛盾を露呈している(【時事通信】《コロナ》11.4記事参照)。これは左翼による政治運動から起こっている現象であると理解される。だが動物についてはどんなに大量であっても、どんなに残酷なことであっても、メディアはたった1つの言葉「殺処分した」という言葉だけで報道し、何ら動物や生物界への哀悼の気持ちすら表さない。せめて「殺処分して供養した」とでも書くべきであろう。生物界で最も繁栄した人間の驕りを感じる。
世界では「生命尊重主義」というものは見当たらない。どこの国も生命の安全は自己責任で行うとするのが建前であり、観光地の絶壁のそばに柵がないことがそれを象徴している。だが日本では過剰なほどに柵やガードレールが施され、自然の景観を台無しにしている。それは一面では国民の命を大切に考えるからであるが、過剰になると人間本来の危険に対する自己防衛本能を損なうリスクがあるとも言えよう。交通安全指導でも手を挙げれば車が停まると教えているようであり、渡りながら左右を確認するということを指導していない。事故というものは人間のミスから生じるものが多数あり、どのような状況であっても自分自身による安全確認は欠かせないのであり、法律を守れば安全が確保されるというのは間違いである。日本では至れり尽くせりの上から目線の対策が講じられており、自己判断をしなくても安全が確保されるという天国のような良い国であることは認めるが、それは世界標準ではない。NHKは天気予報の際に必ず「寒さを防ぐようにコートをご用意ください」というような余計なお節介まで焼いている。そこまで親切に国民を守ることを優先するならば、なぜ安楽死によって多くの人の死の苦しみを救おうとしないのであろうか。それは「生命尊重主義」というイデオロギーがあるからである。だがそのイデオロギーは他の生物の命を無視した人間の傲慢に基づいたものである。
筆者は自分の健康は自分で守るという姿勢を堅持している。それは矜持というようなものであり、退職してからはいつ死んでもいいと考え、市の提供する無料定期健診には行かないことにしている。税金を少しでも他のことに優先的に使ってほしいからである。それでなくても市財政・国家財政が福祉関連の医療費増大・介護費増大で危機に瀕しているのに、誰もそのことを気にせず医者通いするという世の中になった。孫が風邪を引くと、医者に少なくとも2回は連れていく。筆者が、「自分で治すようにした方がいい」と言っても聞き入れられることはない。投薬による回復と自己免疫による回復では免疫の付き方が大きく違うと筆者は考えており、昨年インフルエンザに罹ったらしく(医者に行かないから分からない)、8度1分ほどの熱が出たが、誘眠剤を飲んで1晩汗を掻いたらほぼ1日で治った。それ以外での風邪はここ何年も引いたことがない。友人にはインフルエンザで1週間入院した人がいたが、その経費の差はどれほどであったろうかと思う。歯医者にも20年近く行っておらず、毎日自分で違和感のある所に消炎剤を塗る治療をして全部自前の歯を手入れしている。「命を大切にしようと思うものはそれを失い、命を捧げようと思うものはそれを得る」というような聖句が聖書にあったように思うが、正にそれと同じことが自分に起きていると感じている。
生物界では生命は継承されるものであって、個体としての生命は滅びていく。人間がかつて王様が望んだ「不老不死」を願っているとすれば、それは一重に傲慢になった人間の欲から出ている貪欲な欲望であり、そのような人は自然の摂理に反した罪人である。筆者は原則的に人は働かなくなったらいつ死んでも良いという気概を持つべきだと考える。発掘した古代人の骨の中に歯を全部失った老人のものが初めて発掘されたそうだが、それを老人が敬われた証拠と考えるか、高位の者であったから大事にされたと考えるかは視点の違いから出てくる。筆者は後者であろうと思っているが、大方の人間は役割を果たし終えたらいつ死んでも良いのである。それが生物界の掟でもある。だが人間は過剰に医療を発達させ、必要のない治療を施し、さらに進んで永遠の命に通じるクローン人間をも生み出そうとしている(実現したと某団体が声明を出した)。人間の死に方についてはこの議論とは別の視点から筆者は考えており、それを以下に展開したい。
動物がどのように死を受け入れるのかについては意外に余り分かっていないようである。多分弱った動物は弱肉強食の原理から天敵に襲われて死んでしまうのであろう。弱肉強食の頂点にいる動物の1つである象は死に場所を求めて仲間から離れるという話を聞いたことがある。死にゆくゾウは群れを離れ、森の中に入っていってひっそり死ぬようだ。人間は昔から仲間に看取られながら死ぬことが多かった。怪我や病気が死の主要な原因であったが、仲間はそれを放置しておかなかった。だが薬石の効果は限定的であり、人はいつも死の恐怖から逃れることはできなかった。それを現代の医療は救った。だが一方でICUで家族から引き離された状態で死ぬ例も多くなった。多くの病が克服され、難病でさえ便移植という原始的方法で治る可能性も出てきた。遺伝子操作という手法は多種多様な新薬を生み出し、いまや若返りや寿命延長も人為的に可能になりつつある。だがそれによって人類は繁殖し過ぎて地球を汚染し始め、ついには生物界の棲息環境にも影響を及ぼし始めた。そしてついには動物界そのものが絶滅する方向に進んでいる。
ほとんどの人が知らないかもしれないが、ノーベル賞にノミネートされるほどの一流の科学者である西澤潤一と上墅勛黃の共著である『人類は80年で滅亡する』には、2080年に人類は窒息によって滅亡すると書かれている。60年後の話である。現在の二酸化炭素の濃度470ppm(0.047%)が100倍の4.7%になると、動物はもはや活動すらできなくなり、食物生産にも従事できなくなることから、餓死するとともに窒息死することになると予言している。つまり身の回りの変化(行く先に激流と滝があること)には気付かず、自分の命だけを延ばそうと汲々としているのが人間なのである。そして特定の生物が大繁殖することは自然システムを破壊することだという認識・常識すら働かせようとしない。「自業自得」というこれまた自然界の摂理が働いていると思わざるを得ない。それほどに人類は愚かなのかと暗たんたる思いになる。
安楽死の問題に戻ろう。未来世界にわずかでも人類が生き残るとしたら、彼らはこれまでの愚かさを反省して新たな世界を築こうとするだろう。それは環境との調和の道であり、共存の道である。そのためには過剰な人口を抑制しなければならない。たとえ技術的には長寿が可能だとしても、ムダな延命は避けなければならない。そのために筆者は定年後の不労状況になった人間は早く死ぬべきだと考える。まさか死ねとも言えないことから、定年後の治療に保険を適用しないとか、延命治療はしないとかという方策が採られることになるだろう。それは社会における医療費の増大を防ぐことにも繋がり、安定した社会の継続が可能になるだろう。定年後の人々は自分の老後の生活を設計し、何時頃死ぬべきかという覚悟を決めることだろう。もしその計画途中に病気になった場合、いつ死んでも良いという覚悟も必要だろう。それは心の持ち方次第であり、事実筆者はそういう考え方の下で活動している。以前は70を寿命と考えていたが、世の中が長寿化したために10年ほど前から寿命を80歳と決めた。それまでに自分の仕事を完成させ、もし世の中が平穏であればあとは運命に従って余生を生きようと思っている。そして80歳になったら元気であっても安楽死を選ぶかもしれない。だが現在の安楽死の考え方は以上に述べたように、回復不能な病に侵された場合に限られている。それは筆者の考え方と根本的に異なった考えから安楽死が議論されてきたからである。つまり人は死に伴う苦しみを避けたいという単にそれだけの理由で安楽死を考えている。それは筆者からすれば低次元の考え方であり、本来安楽死は「人間の意思の自由」によるものになるであろうと思うのである。人生の最後くらいは自分の意思を通すことに何の問題があるだろう。それが社会にとっても良いことならば、それを妨げる理由は見当たらない。
だが宗教的理由から、安楽死は自殺と同じだと考える人もいるだろう。それは明らかに間違っている。安楽死は多くの人の祝福を受けることができるが、自殺は人生の敗北であり、悲惨な出来事であり、社会に多くの迷惑を与える行為である。キリスト教には「神のなさることは時に適って美しい」という運命論を示唆した言葉がある。それが喜ばしいことであろうと、悲嘆に暮れる悲劇であろうと、それを神の意思として受け入れることは信仰の強さを表している。死を受け入れることもその時を選ぶことも大きな勇気のいることであり、それは信仰があってこそ可能なのかもしれない。だが未来世界では誰もが自分の自由意志として死を受け入れることを躊躇しない時代になっているだろう。それは死に伴う苦痛を避けることができるという利点だけでなく、社会にとって大いに救いになることであり、それによって人が最後の社会貢献をする機会ともなるからである。
安楽死を許容した場合、社会に悪しき副作用はないであろうか。たとえば自殺したい人が安楽死を望むというような場合である。筆者は自殺志願の人が死ぬ選択をすることについて何ら問題を感じない。敗北者が社会に迷惑を掛けない方法で死ぬならばそれはそれで良いことだと考えるからである。だがまだ人生の半ばを過ぎていないような未熟な人間が、発作的に自殺したいと考えることはしばしばあることであり、自殺志願のすべてを人間の自由意志と捉えることは間違っていると考える。それは一時の気の迷いであることが多いからである。それを食い止めるために、安楽死が許容される年齢というものを設定した方がいいだろう。それは現在の定年に相当する年齢が適当だと考える。病気の有無は問わない方が良い。未来世界で定年が何歳になっているかは予測できないが、おおよそ70歳と考えても良いだろうし、もっと早くに労働から解放されるように60歳にするというのも合理的である。その時になってから考えれば良いことだと思われる(20.11.6「運命論」参照)。
以上の議論から、ノム思想における安楽死というものは、従来の考え方とは全く異なる理由によって正当化されることが分かるであろう。それは強制されるものではなく、飽くまでも個人の自由意志に委ねられている。死にたくない人はその最後まで苦痛を味わうがいいだろう。死を選ぶ人は安楽死に希望を抱くようになるであろう。