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【時事評論2020】

生命尊重主義は破綻している(1705文字)

2020-12-24
   日本の千葉県で鳥インフルエンザが発生し、116万羽の鶏が殺処分されることになった。今季、養鶏場での感染確認は13県目。これまで宮崎県や香川県など西日本だけだったが、東日本にも波及した。一度の殺処分数としては国内では過去最多であり、県は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。殺処分は来年1月7日までかかる見込みだという。殺処分の方法は鶏舎構造によって各種の方法があるが、二酸化炭素による窒息死という方法が基準のようである(11.8「安楽死をどう考えるか」参照)。輸送コンテナ―を使用する場合はラックでの積み込みができ、密閉も容易であり、1回に1400羽処分可能だという。鶏舎が密閉可能な場合は換気口などを目張りしてガスを送り込むという。アウシュビッツのホロコーストとガスが違うだけで同じである。人間がウイルスに感染した場合は老人でさえエクモなどによって救おうとするのに、他の動物ならば一切容赦しないというのは、生命をどう考えているのか大いに疑問が出ることになる。生命尊重主義は撤回すべきであろう。あるいは人間生命尊重主義と改名すべきであろう。

  人間も動物である。同じ動物を平気で殺処分するのは、同じ人間を殺処分したナチズムの大量殺戮とどこが違うのであろうか。人間がやることならば何でも許されるとするならば、ナチズムが人間と見做さなかった他民族・障碍者を殺戮したことも正当化されてしまうであろう。小池都知事が「いのちが大切です。いのちを守るためにはあらゆる手段をとらなければなりません」と語る時、筆者はいつも違和感を覚えている。人間にしか「いのち」はないのか?動物たちの命はどうなっているのか?という素朴な疑問である。この言葉には人間しかいのちを持っていないという傲慢な考え方があると考える。

  もし命を持つ生命を同レベルに考えたとしても、人間が自分達のために他の動物を犠牲にすることは弱肉強食の原理からして当然のことであり、自然の掟に反してはいない。だが人間の命だけがいのちであると考えるならば、それは傲慢の一言に尽きる。日本人は昔から動物を食するときには感謝をもって食べた。食前に「いただきます」という言葉とともに両手を合わせて食される動物や植物に対して感謝をするというのは、少なくとも気持ちの上で傲慢さは微塵もない。筆者も孫にはおやつを与えるときでさえ合掌をさせ、代わりに「いただきます」と唱えて教える。そのような日本の魂が失われてしまったと考えたくはない。養鶏場の人達はどう思ってこの処分に応じたのであろうか。

  2005年には茨城県だけで40ヵ所以上の養鶏場で570万羽が殺処分されたようである。2020年は今回の分を含めて461万羽となる。国内飼養羽数は3億2000万羽(2019年畜産統計)で殺処分数は約1.08%であり、農水省によると鶏卵などの市場に影響はないという。だが数だけで比較すれば完全にナチズムによるユダヤ人ホロコーストを超えたのではないだろうか。今年は11月にデンマークでミンク1500万匹が殺処分されたというニュースもあった(【時事通信】《コロナ》11.4記事)。もしこれらの畜産業で分散飼育が行われていれば、このような大量処分は防げたはずである。牧畜が間接的にではあるが地球温暖化に14%ほど寄与していることを考えると、余りにも無駄なことをやっているのではないかと考えざるを得ない。

  このツケは必ず人間に返ってくるあと数十年すれば、今度は人間が地球という閉ざされた生態系の中で二酸化炭素によって窒息死するだろう。それは動物に対して行ってきたホロコーストの代償なのだろうか、それとも天罰なのだろうか。筆者からすると自業自得の結果と見えるが、それは自然の掟に反した行動を取ったことの報いと言えるが、それは昔の言葉で言えば「天罰」であるだろう。それが明らかになってきたときに、人々は動物たちを人間が大量虐殺してきたことを思い出すだろうか。いや、人間はそうした反省すらしないだろう。そのような人間はこの地球上に生きる意味はないと考えざるを得ない(004「人間の存在の意味」 参照)










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