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【時事評論2020】

老人の悲劇(3262文字)

2020-12-05
  日本は世界で最初に少子高齢化に見舞われているせいか、周りには暗い話が多い。季節柄、喪中葉書が多く届く。亡くなった方の年齢はほとんどが80歳以上であり、一昨日届いた葉書には99歳とあった。葉書をくれた人の父親である。母親はまだご存命で高級老人ホームに入っている。2人で入っていたときには月に100万円掛かっていたそうだ。5年ほど経つから6000万円以上を費やしたことになる。昔から立派な屋敷を持っていたことから、相当多くの現金遺産を遺したのだろう。若夫婦に金銭的負担が掛ったかどうか知る由もないが、筆者も父親を私設の老人ホームに入れたときには両親の貯蓄遺産を使い、毎月の介護費用も親の年金が良かったために自分達の蓄えを使う必要はなかった。だがこれからの日本を考えると、とてもそのような状態で間に合うはずもない。老人自身も申し訳ないと思いながら生きていることがほとんどであり、介護する側とされる側の双方に悲劇が襲いつつある
 
  それもこれも老人が長生きして、思ったような死に方もできない現状があるからである。統計では自宅で死にたいと思っている人は70%ほどもいるが、実際には病院で亡くなる方が圧倒的に多く、施設死を含めると85%にも達する。これは先進各国の中でも突出して高い割合だという。福祉先進国といわれるオランダでは3割以下だそうだ。他国の細かい事情は分からないので、日本の現状を考えてみると、身体の具合が悪くなるとすぐに救急車を呼ぶという悪習があるからであると思う。日本では救急車内での診療に費用が掛かるそうで、およそ1万3千円請求されるとのこと。だが保険でかなりカバーされるのだろう。救急車の1回の出動で人件費を含めて4万5千円ほど掛かるようなので、救急車を多用する人は税金を食いつぶしていることになる。これが無料である国は世界でも珍しいとのこと。救急車搬送費用を有料化することが検討されているようである。
 
  一旦入院してしまうと後は医者の判断に任せることになる。だが意識不明の場合には医師から治療方針を聞かれることが多い。家族はそうした場合、考え方が定まっていないとつい、「どんな治療でも施して命だけは助けてください」と言ってしまい勝ちであるが、これがその後に大きな悲劇をもたらす。筆者の父親は86歳の時に老人ホームで脳出血を起こし、病院に見舞った時には意識不明であった。余命はいくばくもないと私は悟り、医師には「延命治療はしなくて結構です」とはっきり伝えた。亡くなったのはその日のうちであった。付き添い看護ができない病院の決まりがあることから、結局死に目には会えなかったのである。母の場合は老人病院で全臓器不全、いわゆる老衰で亡くなった。その直前に知らせがあり、駆け付けたときには意識があって、重要な遺言を託された。やはりその日の夜半に危篤の知らせがあり、駆け付けた時には心臓電気ショックの最中で面会もできなかった。やはり最後を看取ることは出来なかったのである。
 
  多くの事例でこのようなことが起こっていると予想される。問題は現代日本では治療行為だけでなく、死を確認するために心臓電気ショック(AED) や心臓マッサージを試みることが多いようであり、これは老衰で死んでいく人にとっては人生の最後に与えられる拷問となっていることである。尊厳死協会はこのような悲劇を無くすために設立されたが、延命の見込みのない人には安楽死を許容すべきであろう(11.8「安楽死をどう考えるか」参照)。現代日本ではその議論さえタブーになっており、逆に老人の悲劇的な死に方についての議論は隠蔽されている。筆者は二度と母のような悲劇を起こさないためにも、この場を借りて世に訴えたい。無用な延命治療は人間の尊厳を損なうだけではなく、自然に対する人間の傲慢な挑戦であり、人間をモルモットと同じ実験台にしている行為だと(2.27「高額医療は国家を破綻させる」参照)
 
  なぜ日本ではこのような不条理な医療がおこなわれているのか考えた人はいるのだろうか。尊厳死協会の会誌である「Living Will」はそのまま直訳すれば、「生きる意志」となり、「死ぬ意思」という意味ならば「Dying Will」とでもすべきであろう。なぜか問題の方向をわざと反らせているように思える。筆者が思うに、現代日本が人間味を失って法律に従うことが善とされ、判断が人間的なものから役人的(責任逃れを常套的に行っている)なものに変質してきてしまっているからではないだろうか。中には密かに医師法に反して安楽死に近い方法を取る良心的医師も多いと聞く。だがそれが表に出れば事件となってしまう。患者の家族と医師の間に阿うんの呼吸というか、無言の合意、あるいは信頼があればこそ、この事が成り立つ。それが法律があるために多くの医師は死を確認するために非情な手段をも取ることになる(7.29「日本の介護裁判判決にみる法律主義の破綻」参照)死を善なるものと考える思想があれば、法律もそれに従って死をもっと寛容に扱うようになるであろう。だが最近、外国で死んだと判断された人が生き返った事件があったことから、ごくまれなことではあるが死の確認は注意して行わなければならないことは筆者も重々承知している。だがそれと無用な延命・酷い死の確認とはまた別な話である。
 
  未来世界では自然主義に立つため、人間は死ななければならない存在であると定義する延命医療が進歩したとしてもそれを適用してはならないのである。「人間には死ぬ最善の時があるのではないか」と作家の篠田節子も述べているが、それは彼女の介護の経験、自身の癌を知った経験から悟ったことであるようだ。筆者は、聖書の「神のなさることは、時に適って美しい」という言葉が好きである。運命論に立つとそのことがしみじみ真理であることを実感する。良い時もあれば悪い時もある。生きなければならない時もあれば、死ななければならない時も必ずある。運命に任せて、死に抗うことはもう止めようではないか(11.8「安楽死をどう考えるか」参照)。そう考えるのは筆者がノム思想に立つからであって、それは人生の経験・歴史、そして未来世界への考察から学んだことである。
 
  人間は生まれて死んでいく。それは生物の宿命であり、そうあらねばならないのである。もし人が働かずにその人生の半分以上を生きたらどうなるか、誰が考えても自明であろう。現代では人生の20歳から仮に70まで働いたとすると、50年間を社会に貢献したことになる。もし寿命が100歳になれば、逆に見れば人生の半分以上を社会に養われることになる。日本では「人生100歳時代」の到来と言われており、正に人生の半分以上を社会から養われていくことになる。だがそれを可能にするためには多くの資源とエネルギー、そして人の労働と奉仕が必要になる。それは地球を汚染することに加担することに他ならない。そうした高次の意識があれば、誰も無用に長生きすべきではないということを理解するだろう。動物は生殖を果たせば多くの場合間もなく死ぬか、その寿命の1/3ほどを生きながらえて死ぬ。人間だけが1/2以上を生きながらえるのは異常である。本来は人間も正常であった。アメリカ映画の「天国は待ってくれる」(1943年公開)では36歳で年寄りと呼ばれ、60歳で天寿を全うしたと描かれている。もっと昔では女は子を育て終わると40歳くらいで死んだとも言われた時代もあった。だが医療の進歩・進化が事態を全く変えてしまった。つまり人間は寿命をコントロールする術や思想を見失ったのである。ここに新たに「死の哲学」が生まれなければならない必要性が出てきている(4.27「人間の死生観と死の哲学」参照)。それはノム思想の自然主義に立ち帰ることであると筆者は主張したい(9.7「ノム思想(ノアイズム)とは何か?」・12.1「自然の叡智と人間の叡智」参照)
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