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【時事評論2020】

刑罰と追放・死刑廃絶に向けて

2020-12-07
  本項では刑罰の未来社会における考え方とともに、その最高刑としての「追放」について説明する。これは現行の死刑制度廃絶運動とは全く趣旨が異なるが、一部には共通する理念もある。それはどのような刑罰が許されたとしても、人が人の命を奪うという生物界には無い社会的制裁方法を避けたいという思いである。ただ未来社会ではその代替方法として「追放」というものを規定する。これは従来の「島流し」とは異なり、人間界からの追放を意味するところから、事実上の死刑と同じ結果をもたらす。それはこれまでにない過酷で凄惨な状況であろう。だが人間界はその結果がどのようなものであれ、自然が与える過酷な刑罰を問題視はしない。そこが現代の情緒主義に基づく人道主義とは大きく異なる。根底にあるのは「自然主義」である。自然の仕組みを人間界にも取り入れようというのが自然主義の考え方であり、そこには「運命論」がある(11.7「運命論」参照)
 
  未来を述べる前に現在の状況を概括しておこう。人間はこれまで、社会の掟に反し、かつ見せしめとして必要だと判断した場合に「私刑・死刑」を行ってきた。それは当初は衆人環視の下に行われる公開刑であることが多かった。「見せしめ」という要件が重要だったからである。だが法制度というものが出来たころから、人は法の下での死刑に移行した。私刑は禁じられ、もっぱら公権力が死刑を執行するようになるだがそれは自然の仕組みからすると外れた行為であり、自然界にはない同種・同族に対する措置である。そのため死刑の執行に当たる人さえ忌み嫌われることになり、えた・非人と呼ばれる最下層の人間がこれに当たった。やがて人種差別・階級差別が人道に反するとして、人間は皆平等であるとする近代の「平等主義」が広まってきたことにより、死刑は組織的に隠蔽されて行われるようになった。それは逆にいえば、「見せしめ」効果を損じたということにもなったが、相変わらず死刑というものが人々に一種の恐怖感を与えてきたことは間違いないだろう。
 
  だが死刑の苦しみを想像させる斬首刑・絞首刑から、電気ショック刑や薬死刑に移行するにしたがって、死刑はむしろ楽に死ねるという想像を人々に与えるようになってきている。そこにはもはや「見せしめ」効果は期待できず、孤独から犯罪を犯した人間は、むしろ死刑を積極的に望むようになってきているのかもしれない。日本において2016年に起きた身障者施設における大量殺人事件では、犯人の元施設職員の植松聖( さとし:事件当時26歳)が死刑を自ら求めたことで異色の事件となった。それが彼の信条から出た要求であるにしても、死刑自体に恐怖感が無くなってきている証左であろうと思われる。だが現実にはほとんどの死刑囚が死刑執行の朝までそのことを告げられないことで、毎日をびくびくしながら監獄の日々を送っているという事実があり、やはり死刑というものが世の中に与えている恐怖感には、一定程度の犯罪抑止力があると思われる。
 
  未来世界では刑罰に対して寛容であるとともに厳粛である。寛容さは再犯罪防止のための各種措置に表れている。それには洗脳教育・再出発教育・技能教育などがあり、性犯罪者には性欲制御治療などが施される。一方これら矯正教育・更生教育に従わない心根の悪い者に対しては、人間資質を得ていないとして人間資格剥奪という最終手段を取る。これは3段階ほどの評価・審査を経て最終的に決定されるものであり、独裁国家が秘密裡に不都合な人間を抹殺するのとは訳が違う。人間資格の剥奪ということは、人間界からの追放を意味する。これは過去の歴史において考え得る最も過酷な刑罰となるだろう。人間による死刑ではなく、自然界への放逐は、社会でしか生きられない人間を自然の中で自然死させることを意味する。だがそれは長い時間の苦しみと、野生生物による攻撃が想定されることから、ローマ帝国のコロッセオを思い出させるであろう。ここで剣闘士は野獣と闘って死んでいった。これを公開するかどうかはまだ分からない。見せしめとしての効果はあるが、現代の人道主義とは反するからである。自然に任せた以上、それを人間界が活用することは避けるべきであろう。
 
  死刑制度として今日では安楽死を選択する方向に動いていることは前述した(11.8「安楽死をどう考えるか」参照)。逆にいえば、死刑制度に採用された薬物が安楽死に採用されたのではないかと見ている。これに使われているペントバルビタールナトリウムを用いた点滴法では死ぬまでの時間は20秒ほどであり、いわば眠るように意識を失って死ぬのである。死んだ人に聞くこともできないが、恐らく臨床実験をしているだろうから、苦しみの兆候としての心電図・脳波に異常は認められないのであろう。これを採用したことで「死刑制度=安楽死」という図式が成り立ってしまった。これから苦難の時代を迎えたとき、人々は争って自殺ではなく凶悪犯罪を犯して死刑になることを求めるようになるかもしれない。つまり人間は刑罰の最悪の方法を選択してしまったことになるだろう。
 
  また逆に、死刑を廃止した場合、その囚人が再犯率が高かったとしても刑期を終えれば世の中に出て自由を味わうことになり、それは世の中に恐怖というストレスを与えることになる。特に性犯罪は本能に基づく犯罪であることから再犯率が極めて高いと言われている。狼を子猫に変えたなら問題はないが、刑期を終えれば狼を狼のまま釈放しているのが現代の法制度である。これほど不条理・不合理・不道理な仕組みというものはない。なぜこのような矛盾だらけの仕組みを作ったのかと原因を辿れば、全て人権主義に行きつくのである。人権主義の内包する矛盾が表れているに過ぎない。そして犯罪者の収監・生活保護、等々に掛る費用は全て税金である。メディアは一度でもこれら諸費用を統計から割り出し、その無駄を指摘したことがあっただろうか。我々は犯罪者の生活のために税金を使ってほしくない。ましては犯罪者を刑期が終えたからといって放免してもらいたくない。犯罪者が更生した場合にのみ、再度社会に受け入れることができる。そのような当たり前のことが現代では行われていないのである。
 
  結論をまとめたい。現代の法律主義の矛盾や人権主義の矛盾から、現代では人が人を殺す制度を認めている国があるが、それは自然法に反している。一方死刑制度を廃止した国であっても、スウェーデンやノルウェーなど北欧の刑務所は、犯罪者に罰を与える目的より更生をさせることを目的としており、リゾートのような環境を提供しているという。それは死刑に該当する人間を税金を使って豪華な獄舎で好きなように暮らさせているという馬鹿げた政策を採っていることを意味する。これもまた人権主義の矛盾である。そのため余裕を失う未来世界では、現代のような資源とエネルギーの無駄を伴う刑罰を徹底的に見直し、無駄のない刑罰規定に変えていくことになるだろう。それは囚人の強制労働化と再起教育(更生教育)に絞られる。それに従わないものは再起不能と見做して人間界からの追放とする。追放は人間界と隔絶された離島・砂漠・野生動物保護地などに放逐することで執行される。その際には人間界で得ていた利便性(衣服・食器)は全て取り上げられ、素っ裸の状態で自然界に送り込まれることになる。
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