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【科学評論】

植物に感覚はあるか?

2023-08-24
  植物に「感覚」というものはない、というのが常識であった。だが最近、植物がさまざまな「知覚様」なものを持っているということが科学的に分かってきて、神経が無いのにもかかわらず、部分の知覚様情報が他の部分に伝達されていることも分かってきた。また植物同士が、どうも菌類(キノコ・カビなどの真菌類)の糸状菌を使って共生するとともに、情報をやり取りしているらしいことも分かってきた。こうしたことが「感覚」というものに繋がるのか、そして植物は「痛み」というものを感じているのか、という素朴な疑問をノムが持つ切っ掛けになり、調べて考えてみることにした。

  最初に「感覚」というものを定義しておかないと、議論が堂々巡りになってしまう恐れがある。「感覚」をウィキペディアで調べてみると、①高等動物固有である・②感覚器官から生じる・③感覚情報を伝達する神経が必要である・④感覚を統合処理する脳が必要である、等々が一般的理解である。一方、「知覚」も「動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、刺激の種類を意味づけすることである」とされていることから、植物の場合は単に「情報」という括りで表現しなければならないことになる。その意味では植物が刺激(触られる・齧られる)に対して反応するのは、単に生理的反応であり、その伝達は細胞液や流動液(師管・導管液)を通して行われていると思われる。ここまでくれば、植物には動物と同じような「感覚・知覚」はない、と結論付けるのが普通であるが、もう少し、議論を続けてみよう。

  植物は一般に速い運動はしない。だが食虫植物は素早い動きで蓋をして昆虫を捕えたりするし、発芽した大豆などの芽は光の方向を変えると、ゆっくりだが向きを変える。つまり動物のような素早い全身運動はできないが、部分的運動と呼べるような運動は可能である。植物プランクトンや、有性植物の精細胞はもっと全身的な運動を可能にしている。植物プランクトンの一種であるボルボックスは数千個の体細胞から成る球形であるが、個々の体細胞が持つ2本の鞭毛で水中を動き回る。有性生殖の精細胞は1本以上の糸状鞭毛を持ち、これで動き回ることができる。こうしたことを考えると、植物を一概に「動けない生物」と断定するのは間違いだということになる。

  植物のそうした運動が、環境条件に合わせて功利的に行われていると考えるのは間違いではないと思われる。たとえば上記の植物の性細胞は、なんらかの誘引物質にひきよせられて一方向に向かうと予想される。2009年には植物の花粉(動物のオスの精子に相当)についても名古屋大学の東山哲也チームが画期的発見をしている(「Nature」誌掲載)。それは動物の精子の場合も同様であり、ホヤではSAAFという物質が誘引物質であることが2018年に吉田学らの共同研究チームによって発見された。植物の性細胞や花粉が特定の物質に感応することを「感知」と呼ぶことに問題があるかどうかはノムには分からないが、通常は生物学的・医学的には「受容・応答」などの用語が多く用いられている。要は植物に対しては「感」とか「知」とかいう用語を使いたくないように見受けられる

  植物に感覚専門の細胞なり器官があるという記事は読んだことがない。また神経に相当するものがあったという記事も知らない。まして植物に脳があったなどという発見があったとしたら、世の中がひっくり返るであろう。いずれも植物には感覚はないということを傍証している。だが植物は虫に齧られると、その情報を他の細胞に伝えて毒物質を出し、食べられるのを防いでいるようだ。さらに根やその中に共生する菌類などを通して、隣の木の根に情報を伝えていることが最近分かってきた(8.22「競争から共生へ」)。つまり感覚情報としてではないが、情報のやり取りはしているのである。その情報は生理的反応を起こすが、脳が無いため知覚・感覚として認知されるわけではない。結論として、植物には痛みの感覚はないということになる。

  人間は、植物が菌類ネットワークで共生をおこなっており、相互に助け合っている、という事実を擬人化してしまいがちだ。つまり「植物同士は助け合っており、互いに協力して子育てをするように幼木を育てている」、という表現にすり替わり、さらにはまるで植物に助け合いの意思があるかのように考える学者もいる。カナダのブリティッシュコロンビア大学の生態学者スザンネ・シマード(女性)は、『マザーツリー・森に隠された「知性」を巡る冒険』を著しているが、正に擬人化の典型的事例であろう。得てして女性学者に多いように思われるが、こうした情緒的思考をする学者は、本質的なことを見逃して、相同的思考から植物を人間に例えてしまうのである。こうした思考は大衆受けするため、疑似科学を招く。
  
  知覚・感覚に関する議論も似た様なところがあり、植物が外敵から与えられる傷なり、環境変化で生じる組織のダメージを、人間の感覚になぞらえて「植物も痛がっている。可哀そうね!」と表現することは決して人間界では間違ったものではない。だが科学界でそういう表現を使ったら、噴飯ものになることは間違いないだろう。ノムも記事を書くときに気を付けなければならないと思った。

(8.23起案・起筆・終筆・8.24掲載)


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