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【時事評論2023】

権力者のパラノイア

2023-12-29
  前項で独裁者の死にざまを調べていたとき、ソ連のスターリンについて疑義が思い浮かんだ。彼は脳卒中で死んだとされているが、実は暗殺された可能性が極めて高いことが分かったからである。また権力者がしばしばパラノイア(強迫観念に基づく神経症、あるいは精神病)に陥るということについても書いておくべきだろうと考えた。前項の続きと思ってもらえればよい。

  最初に、冒頭で書いたスターリンの死にまつわる疑義について触れたい。これに関して書かれた諸出版物については何も知らないが、ウィキペディアの記事だけからでも十分に暗殺の可能性が考えられる。ノムがその根拠として取り上げるのは以下の点である。

1.スターリンは第一次五ヵ年計画(1928-1932)の失敗と大粛清(1930年代)による多くの国民と部下の死によって、復讐されるのではないかという、強度のパラノイア(妄想)に陥ったと言われる。粛清癖がこの頃より前からあった可能性は高いが、自身の暗殺を恐れた行動は尋常なものではなかった。例えば邸内にいくつかの構造の同じ寝室を作らせ、どこで寝るかは専任の警護官しか知らなかった。そして寝室は内側から鍵を掛け、その鍵を開けるには警護官にしかできなかった、という。

2.1953年3月1日、死の直前に開かれた宴会で、ベリヤ、マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れたとされる。だがスターリンのパラノイア的趣向で、守衛しかドアを開けられなかったことにより、守衛は定例時刻になってもスターリンが起きてこないのを不審に思ったが、スターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかったという。スターリンが意識不明であることが分かったが、フルシチョフはその場にいたにも拘らず、すぐに医師団を呼ばなかったとされる。

3.公文書館の文書によると、医師団は倒れたスターリンに対して毒物接種時の治療を施したとされる。言われている症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことになる。

4. スターリンが医師団陰謀事件(1951年)を利用し、モロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために部下とともに処刑された(1953年)、という説がある。ベリヤはスターリンの大粛清の執行者でもあった。当時、スターリンはベリヤを積極的に処分しようとする様子も見られたという。スターリンの死後、ベリヤは第一副首相兼内相として実質的な最高権力者となり、自由化推進のキャンペーンを実施したが、フルシチョフの謀略で失脚して、裁判で死刑判決を受けて部下とともに銃殺刑に処せられた。フルシチョフはベリヤの対抗馬であった。

5.ベリヤの最後についてもいくつか諸説がある。フルシチョフの証言によると、フルシチョフを含むソ連首脳部はひそかに作戦を練り、定例会議を装ってベリヤを会議室に呼び出し、合図でベリヤにいっせいに襲いかかって首を絞めたという。嘘のような話であるが、これが真実だとすれば、スターリンの毒殺説もあり得ない話ではないであろう。

  以上のことから、スターリン暗殺の動機は首脳陣の中にあったとされる。だがスターリンが倒れた後に右半身に麻痺があったということから、脳卒中の可能性も非常に高いだろう。年齢的にもあり得ることである。ノムとしてはあらゆる可能性があるとしか言えない。

  スターリンのパラノイアについては枚挙に暇がないほど多くのことが語られているし、逸話として残っている。元々グルジア人であることから、ロシア人を根底から信じることは無かったとされ、異常なほどに周囲に対して警戒感を抱いていた(22.12.11「権力の取り巻き」)。それが高じたのは1.で述べたように、1930年代以降のようだ。以下にその行動なりを列記してみる。

1.演説が下手で、好まなかった。人当たりは良く、単純明快な性格に見られたが、その裏では猜疑心が渦巻いていたとされる。
2.夜型人間であり、午前11時に起床し、夜遅くまで仕事をした。食事を他の政治局員やその家族と共にすることを好んだという。これは他者への猜疑心の裏返しと見られる。秘かに会話から忠誠を読み取っていたと思われる。
3.飛行機が嫌いで移動は自動車が多く、それも運転手を信用せずに自分で運転した。装甲車のような公用車であったという。生活は質素で、ストレス軽減のための喫煙を欠かさなかった。
4.背は163cmで低く、顔は幼少時の天然痘罹患によってあばたがあった。だが公式写真では修整によりこれを消している。左腕は幼少時の重症で不自由であったようだ。虫歯に悩まされ、亡くなったときは自前の歯は3本のみだった。そのためカリスマ的印象はなく、遺体防腐処理を担当したデボフという男性が、「スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けた」と証言している。陰湿な粛清癖は、こうした身体的コンプレックスも影響していたのかもしれない
5.強い自制心と抜きんでた記憶力を有し、また努力家で、学ぶことに対して貪欲だったと評されている。スターリンは相手に応じて異なる自分を演じることができ、また人を騙すことに長け、しばしば自らの真意や目的について他者を欺いた。優れた組織力を持ち、戦略的思考にも優れていた。怒りで声を荒げることは稀だったが、粗野で無礼な態度をとることを自認していた。晩年に健康状態が悪化するにつれ、気難しく気まぐれな傾向が強まっていった。人に対して愛嬌を見せることもあり、冗談も言ったり、人の物真似をしてみせた。この愛嬌が権力の基盤であったと評価する人もいる。一方、近しい側近にすら「安心のない恐怖」を与えることを楽しんでいた
6.妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言ったという。ヤーコフは捕虜になったドイツのザクセンハウゼン強制収容所内で死亡したが自殺であったようである。収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている。父親から見捨てられたという思いを持っていたようだ。2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリーと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表されたが、彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げている。次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇された。スターリンはワシーリーの失態を口実に、彼を要職から解任した。最後はアルコール依存症で死んだ。娘のスヴェトラーナは可愛がられたが、最初の恋人をスターリンから「イギリスのスパイ」と見なされてシベリアに追放されている。結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命。回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。

  他にも冷徹・非情な逸話は山ほどあるが、彼のような独裁者はヒトラーと多少似たところがある。いずれも幼少の頃に不遇であったが、知的能力は非常に優れていたとみられる。そして周り中を敵と見做して粛清をしたことでも共通している。生活的には質素だったことも共通していると思われる。両者にはパラノイア(偏執症)があったようであり、恐らく独裁者は皆共通してこの病気に陥っているように思われる。だが権力者全てではないことは注意しておかなければならない。ただ、権力者というものが独裁的傾向に陥りやすいことは確かであり、日本の菅直人も「選挙によって選ばれた権力には独裁も許される」という趣旨の発言をしている。

  未来世界では、権力者がパラノイアに陥っているとAIが判断したならば、その権力を奪うことができる政治システムになっていなければならない。その方法としては、国会の発議で国民投票を行い、政府のトップの指導者としての資格を問えるようにしておいた方が良いだろう。ただ国民投票の結果で指導者の進退を決めるのではなく、国民の60%が不信任を示した場合に、再度国会が指導者の進退を審議し、弾劾決議を以て指導者を交代させるのが望ましいだろう。

(12.29起案・起筆・終筆・掲載・12.30追記)


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