【時事評論2023】
【時事短評】中国外相更迭劇の裏に何がある?
2023-07-27
中国が秦剛外相を突然表舞台から消し去り、消息さえ明らかにせずに1ヵ月放置した。その間いろいろな噂が飛び交ったが、ノムはそれらの噂を一蹴していた。そして直観的に、この裏には王毅政治局員との確執、ないしは権力闘争があると観た。それはとりもなおさず、習近平国家主席の対外路線の迷いを反映していた。習は国内経済がゼロコロナ政策で大きな打撃を受けたことを知っており、その回復のために外交を軟化させようとしていた。少なくとも更迭劇が起こる前まではそう考えていた。そのため、最も自分の考えに近いと考えた秦剛を抜擢してきたのである。だが彼の更迭を余儀なくされたことで、習の権威は地に落ちた。以下ではその経緯についてノムの考えを述べたいと思う。
中国の習近平は世界制覇を自分の代に成し遂げるために、事を急いできた。そしてそれは2022年10月23日の党大会で、習が絶対権力を握ったときに整ったと言っていいだろう。それまで目障りだった上海派と言われる勢力を排除し、党内の共産主義青年団(共青団)の力も骨抜きにした(《中国》22.10.31「習近平は7人の指導部から共青団派をすべて排除」・22.12.19「中国の「北京派と上海派」の闘争は歴史的宿命」)。だがゼロコロナ政策が棘(とげ)となっていた。そこで習は、絶対権力を確認した上で、とんでもない大政策転換を行うことを決意したと思われる。それはゼロコロナ政策の停止である。2022年12月7日から緩和が始まり、2023年1月8日には停止政策は終了している。自ら掲げた政策を自己放棄したことになり、国内の政治勢力から反対の声が上がることをもう恐れなかった。命令一下全てが収まると観たからであった。またそうしなければ、中国経済が瀕死の重症に陥ることが彼には分っていた(7.21「中国の経済の疲弊が露呈」)。また国民が停止を歓迎することも予想していたであろう。
2022年11月に起きた国民の声の弾圧強化は国内だけでなく、国外へも伝わって中国の信用を落とすことになった。さらに経済の落ち込みが徐々に明らかになるにつれ、習は強硬な対外政策の変更を考えざるを得なくなっていった。2023年1月9日に戦狼外交を象徴していた趙立堅報道官が更迭され、女性の毛寧が採用されたが、この人事は秦剛が主導したものであると思われる。秦は2022年12月30日に外相になることが決定していた。つまり戦狼外交から好感外交への転換になるはずだった。だが毛寧になっても報道姿勢はほとんど変わらなかった。秦自身が戦狼外交の草分けであることも理由の一つとして考えられるが、外交トップに王毅がいたからである。そこで習は2023年3月、全国人民代表大会で秦を国務委員に選出させた。これは中国では異例の抜擢とされている。メディアでは秦は「親米派」、王は「親ロシア派」とされており、明らかに政権内で外交を巡って権力闘争が起きようとしていた。メディアの中には秦の異例の昇進に対する政権内のやっかみがあったと論評している記事もあるが、そんな小さな感情問題ではない。これは明らかな路線問題であり、権力闘争である。
習は以上に述べたことから分かるように、本来強硬派であるが、経済疲弊を回復させるために対外的に柔軟路線を取ろうとして、子飼いとも言われる側近の秦を抜擢した。だがそれが従来の強硬派である王毅には気に入らなかったのである。秦の更迭が目に見える形で現れたのは7月11日であった。「ASEAN会議に出席する中国代表が王毅に変更された」と報道されたことである(《中国》7.11「中国外交に異変・ASEAN会合への外相欠席・代わりに王毅が出席」)。この時点でノムは、秦と王の間で権力闘争が起きているな、と直感した。だが王のやっかみくらいにしか感じなかったことも確かである。王は華々しい外相の方が、政治局員というより高い地位よりも気に入っているのだろう、くらいに考えていた。だが長期に亘って秦の動静が伝えられない事態を見るに及んで、これは只ならぬことが中国で起こっていると直感した。毛寧報道官が記者団に、質問に対して「情報はない」と突っぱねるのは異常事態だと感じた。外務省の報道官が上司の外相について「何も情報がない」などと答えること自体がおかしいことである。毛寧は近いうちに趙立堅と同様、更迭される運命にあるだろう。
7月25日になって、毛寧報道官は「秦剛外相退任・王毅政治局員が外相担当」を発表した。この記者会見でも相変わらず秦の消息について、「情報は無い」という答弁が繰り返された。6月25日に北京でロシア高官らと会談して以降、1ヵ月にも亘り一国の外相の消息が全く分からないという事態は、これまで聞いたこともないことである。このことによって、ノムにはやはり直感的に、国家権力の闘争が背景にあると感じたのである。だがメディアの専門家らが語る解説や論評の中に納得できるものはなかった。7月26日になって、やっと石平(せき・へい)が、産経ニュースの中で納得できる解説をしていたが、大筋はノムの見解と一致しているものの、より深くまでは突っ込んでいない(《中国》7.26「石平が中国外相解任は王毅の権力闘争と分析」)。ただ、趙立堅更迭の件は合点がいった。この記事の中でもそれを取り入れている。ノムはさらに習近平との関わりをより詳しく解説している。
この更迭劇が意味するものは何かというと、「習の絶対権力」というものはメディアの妄想であったということである。習は外交を担当する部下でさえ支配下に置いておらず、王毅の辣腕と剛腕を止めることができなかった。そして王毅の主張を認めざるを得なかった。この1ヵ月、習の姿はどこにも見られなかった。それだけ影が薄くなったという印象を与えている。秦の失脚で、中国外交がさらに「対米強硬路線」にかじを切ることが予想される。それはつまり、習の考える柔軟路線化の否定であり、経済立て直しが不可能になる可能性を示唆している。諸外国は中国の取る戦狼外交におののき、警戒し、関係を深めることを嫌うようになりつつある。それは西側にとっては好都合なことであり、実質的に「デ・リスキング」ではなく、再び「デ・カップリング」の方向に進むだろう。すなわち中国囲い込みが始まるだろう。そうなると中国の経済はのっぴきならない状況になる。習はこれを予感し、国内に再び不満の声が起こる前に、台湾に攻撃を仕掛けることで、その声を掻き消そうとしている(《中国》7.23「中国の18~24歳のうつ病発症リスクは24%」)。つまり台湾侵攻の時期を早めようとしている気配がある。
中国の強硬路線への回帰は既に日本に対する海産物輸入停止という形で表れている(《中国》7.19「中国が日本産水産物に対する輸入時の放射性物質検査を全面的に始める」・7.21「中国の支配構造と矛盾」) 。中国には「道理」という言葉も概念もない。自国のためにはなんだってやる暴力国家である。その点ではロシアと通じるところがあり、本来歴史的には敵対しているはずだが、表向きは接近を図っている。「敵の敵は味方」という構図である。日本はこの両国と隣国関係にあり、最も危機感を募らせなければならないはずだが、日本人の気性やメディアの不見識から、危機感はさほど強くない。だが既に習は「琉球」に関する談話を通して、沖縄に対して触手を伸ばしているとされる(6.1)。そこへのこのこご挨拶に訪中(7.3)した沖縄県知事(玉城デニー)は亡国政治家と言えるだろう(21.6.30「日本の親中国亡国政治家」)。
8月9日の産経新聞が「中国点描」というコラムの中で、台湾台北支局長の矢板昭夫の論評記事「外相解任 背後に路線対立」というものを載せた。秦剛は人材派遣会社勤務から成り上がった人で、外国メディアの現地スタッフを務めたこともあるという。外国メディアに受けが良かったのはそのせいであろう。駐英公使を経て2011年に報道局長に栄転し、儀典局長となったことで習近平から信頼されたようだ。また周囲からも信頼されていたという。秦剛が報道局を離れたことで、戦狼外交が始まったらしい。秦は2021年に駐米大使に栄転し、その1年5ヶ月後に外相に抜擢されている。習の号令一下があったことは間違いないだろう。就任直後、戦狼外交の象徴であった趙立堅報道官を閑職に飛ばした(上記記事参照)。外交面でも戦狼外交と一線を画す態度であったという。6月中旬の米ブリンケン国務長官との会談では7時間半にわたって話し合い、関係重視をアピールした。一方この親米的な態度が反米派の筆頭である王毅などの反発を招き、王毅が動き出したとされる。記事にはこれ以上の細かい説明はなかったが、ノムの見解と全く同じであった。
(7.26起案・7.27起筆・終筆・掲載・8.9追記)