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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

経験科学の勧め

2021-11-26
  科学というものは、経験論とは相性が悪いものだと考えられてきた。それは科学が三段論法のような論理、あるいは数学的合理性を重視しており、実験的に確かめられる事象を相手にすることが多いのに対して、経験論は他者による追認が難しく、実験的にそれを実証するのも難しいことが多いからである(5.12「愛を科学で解明できるか? 」・8.5「発見の科学と検証の科学 」・8.30「経験論 」・10.16「科学的思考と能力 」・10.17「科学の基礎とその応用 」・11.11「科学の論法 」)。なぜならば、経験というものは複雑な複合因子が絡み合った状況の中で生まれるたった一つの事実であり、その複合因子を実験条件にすることは極めて難しいからである(7.26「経験主義に理あり 」)

  だが一方、経験論はその状況の複雑な中での事象が普遍性を持つことが証明されれば、確率論的にその経験は有効であると見做すこともでき、経験論がただの1つの経験として終わるのではなく、人々に有益で普遍的なものであるとされる可能性が出てくるものである。しかも複雑系の中の事象であるが故に、科学では実験できない多くの事象を対象にすることも可能になり、これまで科学が扱って来なかった領域にまで拡大することも可能であろう(5.17「科学者の予測と素人の予測 」)。イギリスの諺に「学問なき経験は、経験なき学問に勝る」というものがある。

  重要なのは、自然界も人間界も、科学的法則や原理に従って動かされているのであるが、その法則や原理を人間は優先させて生活しているのではなく、飽くまでも人間が判断の道具として使っていることにある。そのため科学が信仰の対象になることはないが、世の中には「幸福の科学」という新興宗教団体もあり、科学を信仰の対象にしていながら、実証不可能な霊言とやらをやたら持ち出して、非科学的主張をしている(2.16「非科学的思考の実例」)。いわばゴマカシの宗教である。上下関係でこれを考えれば分かりやすいかもしれない。科学的法則や原理は我々を拘束するものであり、人間の上位にある。人間はそれを自然界の摂理として、産業革命以前は尊重してきたため、神や仏として崇めてきた。この時代は信仰が成り立っていた。だが人間が科学によって法則や原理を見つけ出し、それを人間生活に役立つ技術として応用し始めた頃から、科学は人間の使える道具となったことで、その地位を下げてしまったのである。そのため神や仏に対する信仰も薄れるようになり、その頃から科学というものが確立されたにも拘らず、科学は信仰の対象にはならなかった(科学における上向思考と下向思考)

  それに対してある人の経験というものは全く同じ経験をすることは不可能であるため、経験に立った教えを主張する宗教者が現れる。これは古代からあるものであり、キリスト教・ユダヤ教などは一神教であり、キリスト教ではイエス・キリストを教祖として崇め、ユダヤ教ではヤハウェを神として崇めるようになった。上記した幸福の科学は大川隆法が神の生まれ変わりだと称しているから、同様な一神教である。だが大川隆法は後継ぎを作ったために失敗している。長男と三男は既に離反し、内部事情をもらしてメディアの格好の餌となっている。ユダヤ教は子らが氏族を形成し、キリスト教はイエスが独身であったために継ぐ者がいなかったが、弟子が広めた。

  経験論が力を持つのは、それが誰にも真似できない特定の人の経験であることよりも、それに普遍性が認められた場合である。これは古来より格言・諺などとして伝承されてきた。信仰を持たないと称している人も、格言などには信頼を寄せている。だが現代人は科学万能主義に陥っているため、まだ人間は複雑系のことを解明しているわけではないのに、科学と格言のどちらを信ずるかと問われれば、多くの人が科学と答えるであろう(10.24「科学と学問のポピュリズム 」)。だが筆者はこれまでもそうであったが、今でも格言の方を信じる。なぜならば、格言で言われている普遍的真理を、科学はまだなお証明できていないからである。たとえば集団心理という現象を「強きになびくは人の習い」など多くの格言で表しており、それは真理であって原理に相当するような捉え方ができるが、これを科学的に統計的に証明した論文を言うものがあることを知らない。恐らく歴史学や統計学などによって仮説の証明はできるだろうが、法則とまでは言えない。ケースバイケースであることが多いからである。

  科学は数学的厳密性が要求されるため見出された法則や原理はまだ少ないが、普遍性がある。人間の経験は無限に存在するが、それを厳密に記録したものが極めて少ないために、原理を導き出そうとしても容易ではない。であるからノムは新しい分野として「経験科学」という分野を確立して、それを科学の中に位置づけるべきではないかと考える。飽くまでも科学である限り、実験も含めた厳密な証拠作りが必要であり、無限の経験の中からAIが原理を見出してくれるであろう。そのためには民の記録が必要であり、日常的なことから政治談議のことまで、日誌なり特定分野のメモ書きなどを個人的に残し、それをAIに読み込ませて原理を探るという手法が最も良い方法だと思われる。個人の日記や日誌が多ければ多いほど普遍性が増すことになり、また人種的・地域的な偏りからも逃れることになるだろう(20.12.25「科学の統合・実用化への転換」)

  医療においても前項で触れたが、現代医療では医者に懸かって病気が治ると患者は医者に事後報告をしないことが多い。これでは医学の発展のためにも大きな損失になっており、もし患者が病気の予後について報告する習慣、乃至は義務があれば、多くの症例についての莫大な知見が得られることだろう。また治療法の有効性についても検証が可能だろう。新薬に対する治験というものは科学的に行われるが、病気に対する治療については医師が学者として学会に報告する以外には統計的に探る手段が不足している。これが患者による報告で大きく補われるならば、医学にとって大きな進歩となるだろう。しかもそれはIT技術によって手間と費用が最小限に抑えられることで、医師にも患者にも負担が少ないだろう。

  他の日常的経験が同様な方法で国民から報告され、その信頼度に応じて人格点が付与される仕組みを作れば、かなり精度の高い学術的検証の対象になり得ると思われる。民には一定の書式で作られた記入用紙がネット上に与えられ、それは分野ごとに質問項目が異なっているが、5分程度で回答が終わるような〇×式が好ましい。回答者が説明書きを書いたとすれば与えられる人格点はより多くなる。AIがこれらの報告を自動的に読み取り、学習を重ねていく。そうするうちにAIが自動的に原理を見出すようになり、それを文字として人間側に伝えてくれるであろう。それが有効であると人間側が見做すことができたとすれば、それは既に科学的手法に則ったものとして正当に評価され、立派に科学の仲間入りをすることができるだろう。これを「経験科学」の手法として勧めたい(20.12.16「科学的思考の世界」・11.1「科学を庶民の手に取り戻そう 」)

(24.3.12追記)


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