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【時事評論2021】

学びの学校選択

2021-12-16
  現代日本においては学びはかなり自由となっているが、その反面、学習意欲が無いのに学歴を稼ぐために進学する生徒が多く、それは社会にとって大きな無駄となっている。これは学校が教育という本来の社会的役割を重視するよりも、ビジネスとして成り立たせようとすることを重視していることによるものであり、競争社会の悪しき側面となっている。最近では大学総長が不正を糾弾される事態も生じており、それはビジネス競争化した学校の体質を象徴している。本来は学びたい者が学びたい分野を教えている学校を選択すべきなのであるが、ほとんどの義務教育課程の生徒は、学校の有名度や偏差値などによって、学校の名を選んでおり、教師を選んでいるわけではない。筆者は小学校の成績が中程度であったため、心配した両親によって中学校から私立に行くことになったため、何も分からずに運命によって同じ系列の大学に進学することになった。それはそれで結果としては良かったと思っているが、必ずしも最適だったかどうかは分からない。
  
  未来世界において、人は生涯において学習期とされる6~18歳の間にさまざまなことを学ぶ。12~15歳の中学期までは社会的素養を中心に学ぶため、義務教育として位置付けられ、教科内容にそれほど大きな差はない。未来世界では15歳(中学校終了時)で元服を迎えることになり、その時までに一応の大人の心構えができていなければならないと考える。高校というものは、必要に応じてより高いレベルの学習をする場とし、大学以上は人格点次第で進学可能とする。それぞれの過程で学習不充分や出席日数(学習時間)不足の場合は留年制度を活用する。そのことで卒業率が下がり、親や学生本人も無駄になりそうな進学に力を入れることは無くなるであろう。高等教育は本当に必要な者にのみチャンスとして与えられるものになり、政府としても教育に無駄な費用は掛けない

  このような未来世界の教育において、生徒らが進路を決める上で、学校選択ということが非常に重要となる。未来世界ではネット上の学校による通信教育が高等教育において主流を為すため、通学の心配はかなり軽減されるだろう。たとえば「〇〇研究所付属大学」という名称もあり得る。教員は研究所の研究者が当たっても良いが、50歳以上の元研究員が主体となる形が考えられる。その場合、大学施設と言えるようなものはほとんど無くても構わない。そのため、親や本人からすれば、遠隔地での下宿生活や留学の費用の心配はほとんど無くなる。他国での学校を選択することも非常に容易になる(下記)が、原則として教育のための留学というものが世界的に禁止されるため、外国での学びは極めて特殊な事情なりがある場合を除いて不可能となる(後述するが、後進国から先進国への留学は例外)。

  高等教育学校側の経営面や教育方法からすると、これまでの学校のイメージはほとんど無くなるのかもしれない。学校は組織としては存在するが、その構成としての教室・体育館・福祉施設などの設備を持たない場合もあり得るだろう。教師や教授は選定された人が基本的には専業としてこれに携わるが、在宅勤務や兼業もあり得る。授業は全てネット上での有料公開講座(授業)・グループ指導・個人指導などからなり、生徒は基本的には指定された時間内であれば、いつでも質問ができる。理解の程度は時々提出される課題が解けるかどうかで判断され、個人々々で進度は異なるため、かなりの差が出てくる。頭の良い子は先に進んで次の学年目標を達成すれば飛び級も可能となる。未来世界は良い意味での競争は奨励する。

  筆者は孫の躾でも体験しているが、3歳の幼児の頃から人間は競争心を持っており、それを応用すると嫌がることを率先立ってやるようになる(2.17「孫の躾」・6.30「幼児の心理と躾  」) 。たとえば、風呂に入りたがらないとき、服を脱ぐのが親とどちらが早いか競争させると、結果的に風呂に入ることになる。子どもは「大きい・速い」ことに優位性を感じるもので、早くやらせることを競争にすることで親の思うように制御することができるのである(1.7「制御思想」)。筆者も中学に入って成績順位が発表されることで勉強に身が入り、みるみるうちに上位にまで成績が上がった。それは決して悪い競争ではない。勉学目標にしても、本人の意思だけでなく、親や周りの意義づけがあってこそ、本人に勉学の動機が生ずるのであり、周りの影響は非常に大きい。

  未来世界では各国だけでなく、世界にどんな学校があり、どのような教師がいて、どのような考え方に基づいて教育しているかが分かるようになっており、たとえば科学方面に興味がある子はネットで「進学→分野→国別→学校→教師」と検索を進めれば、国内だけでなく、世界共通語(英語になる可能性が高い)によって他国の教育システムを知ることもできる。だがそこまで調べるほど優秀な子は滅多にいないであろう。さらに特別な理由がなければ外国に学びに行くことはできない。だが後進国の生徒が先進国から学びたいと思った場合、人格点が高ければその可能性は開かれる後進国が先進国から多くの先進的技術なりを学んで自国の発展に尽くすことができれば、将来のその国の賢人候補になり得るであろう。このような優秀な人材を受け入れる国も、派遣する国も国格が引き上げられることになる。

  学校にも学校格というものがあり、それは総合点と項目点でランキングがあり、どちらで学校選択するかは本人の自由である。学校のランキングが生徒の社会的ステータスとなることは止むを得ないことだが、本人を判断する場合には所属学校のランキングは余り重要ではない。多少影響する程度である。現代ではその点、個人を判断するデータが余りにも少ないため、出身学校や所属学校が重視されてしまっている学校格はその学校に所属する生徒や学生の人格点の平均値から格付けされ、また学校独自の校風や伝統も重視される。歴史の長い学校ほど優位なことは言うまでもない。その学校から輩出された賢人の数も格付けに大きく影響する。単なる有名人の輩出は全く考慮されない。それは週刊誌ネタ程度の価値しかない。

  学校の経営基本的には授業料と卒業生などからの寄付によって成り立つ企業からの献金は競争を煽るための動機を含んでいるため、原則的には禁止されるべきである。すなわち賢人を如何に多く輩出し、卒業生がそれを誇りと思って寄付を寄せることで学校は発展する。上述したように学校は基本的に義務教育では各地に分散配置されるが、高等教育(高校以上)では必ずしも施設を持たなくても存立できるので、そのような高等教育学校では教育内容が競争対象となるであろう。それに魅力を感じる才能豊かな人材が集まれば、自ずとそこから賢人も多く輩出されることになる。実技(体育等)は夏のスクーリングなどで補えるし、実習はビデオ学習でもある程度はこなせるはずであり、スクーリングでその達成度を確認するだけで良い。学校で学ぶのは基本であって応用ではないからである。

  以上のまとめをしておこう。未来の学校は各地に分散配置された義務教育施設(保育所・幼稚園・小学校・中学校)と、進学を希望する生徒のための高等教育機関(高等学校・大学・大学院修士課程・大学院博士課程)から成り、後者は必ずしも施設併設を必要としない高等教育は基本的にネットで行われ、その達成度の確認のために年に1度か2度程度のスクーリングが行われる。その場合は合宿施設か最寄りのホームステイ施設が使われることになる。進学を志す若者には人格点が一定以上であることが要求され、誰でもが学べるというわけではない。その資格があって、なお進学を希望する場合はネット上で検索を行ったり、教師の指導を参考にして入学試験を受ける。合格しても転居の必要はほとんど無いであろう。学費は純粋に学校に納める授業料だけになり、世帯の負担は極小化されることになる。また学生は他校の授業を受講して単位とすることができる。授業にもランク付けがあり、取得できる単位数に差がある。学生からすれば、世界を股にかけて学びをすることができることになる。


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