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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

個人と国家の動物性

2021-09-15
  ノムは人間界の事象を人間の本能から解き明かそうとしているが、人間の進化過程を考えると、急速な大脳本能(知的本能)の進展によって人間は非常に精神的に高いレベルに到達しつつあると思う反面、未だに動物的な生存本能と生殖本能に根拠を置いている人や国家があることに、進化の程度に大きな差が生じているのではないかという考え方を思いついた(6.24「人間性と動物性 」)。これは単なる人の個性の問題ではなく、また国家の個別的事情ではないように思えてきた。それを本項では議論をしてみたいと思った。

  孫の成長を見守りながら、三歳になったことでその難しさを感じさせられている。早い子は2歳の頃から自我というものが発達し、いわば第一反抗期とも言える「いやいや病」に掛る。理由なく何にでも「嫌だ」・「しない」と反抗するようになる。食事でさえ嫌だと言うようになると、生存本能を超える本能として大脳本能が勝ってくる時期なのかとも思ってしまう。自立し、自分の考えや感じ方を優先するようになるのは人間に独特な成長過程なのか、動物にも同じような反抗期があるのか、とかいろいろ考えてみた。動物には生存能力を高めるための「遊び」や「喧嘩」はあるが、親に対する反抗という行動が見られるのかについては知らない。むしろ動物では子が育つ(人間で言えば思春期前)と追い出すことが多い。人や国家というものも同様な自己主張から来る反抗があり、それが社会を不安定にしたり、国際紛争の種となっている(20.12.26「主権論」・7.14「権利と人権 」)

  これを本能論から観てみると、主張が自己利益・自己勢力拡大に繋がるようなものであったとすれば、それは生存本能に基づくものであると考えられ、群れ(社会)全体の利益を優先するような考え方や行動であれば、それはやはり生存本能から出てくる直感的なものであるか、或いは人間のような高度に精神構造が発達した大脳本能によるものであるかのどちらかなのであろう。動物はたとえば鳥や魚の群れが一団となって行動するのを見れば分かるように、全体の生存確率を高めるために集団的行動を取ることが多い。人間もまたホモサピエンスがネアンデルタール人と生存競争をしていた頃には、集団行動を取った小柄なホモサピエンスが勝利して現代の我々に繋がっている。現代では集団は国家のレベルに留まっているが、進化の法則や自己組織化原理からすれば、最終的に人類全体が再び1つに集合することは間違いなく、それは賢人による連邦制度となるであろう

  コロナ禍という人類全体の脅威を経験している我々は、今こそ全人類が結束しなければこの闘いには勝てないと思うべきなのだが、そうした考えはメディアにも学者にも皆無であるようだ。さらに言えば、人間同士が国家という利己的集団の枠組みの中で戦おうとしている、あるいは戦いつつある現状が、第三次世界大戦という核戦争で文明破壊が起こる可能性を確実に高めていることを直視せず、調整でなんとかなるだろうという甘い見通しの下で外交努力に期待しているというのは何とも滑稽ですらある。つまり科学の示唆する未来を、感情(平和への願望)で紛らそうとしている姿勢は、何とも動物レベルであるとさえ思えるのである。そうした意味で、現代の個人や国家は、メディアを含めて動物レベルをまだ克服できていないと感じるのである(4.8「現代人の動物性 」)

  もし人間がもっと進化して大脳本能が生存本能や生殖本能を凌駕すれば、大戦争や強姦というような野蛮で悲惨な手段で生存本能や生殖本能を満足させようという行動を取らないであろう(20.11.9「強姦(レイプ)の状況論」・7.4「戦争論 」)。確率的な問題から、少々の間違いは犯すかもしれないが、人類全体が大局観に立って全体の利益を優先するようになれば、個人の生存を賭けた闘いよりも、人類全体の存続の継承の方が大きな利益だと認識するようになり、個人の命を全体のために捧げるようになるであろう(5.6「「共感=シンクロ=共鳴=同期」の脳科学 」)。古代からそのような英傑はいたが、ごくわずかな数でしかなかった。だが現今では欧米の一部の国民に見られるように、地球の保全のために闘う人も出てきている。それは人類の英知に進展があったということだけでなく、その本能が確実に進化してきていることを証左していると思うのである。

  だが現代の社会システムと人間の利己的本能とから、選挙で選ばれたり、権力闘争に打ち勝ってトップに上り詰めたりした人間の人格は、必ずしも人間として高みにある存在ではない(20.11.2「選挙制度改革は急務!」)。しばしば傲慢で不遜な人間が多いことはよく知られており、ノムからすればそれは動物的であると見える。権力者が色を好むというのも、生存本能と生殖本能が一体化して大脳本能を上回ったためである。ここで重要なのは大脳本能が劣っているということが、頭が悪いということを意味しないということに注意しなければならない。悪人は総じて皆頭はいいのである。つまり悪賢い。大脳本能は頭の良し悪しのことを指すのではなく、生存本能と生殖本能を制御する能力のことを指す。それがより高ければ高いほど、大脳本能が進化していることを示している(2.21「脳の進化と人間社会の脳の乱立 」)その高さとは、他者を思い遣る気持ちの強さで示せるだろう。

  こうした観点から現代の個人と国家の動物性というものを考えると、かなり分極が激しいことが分かる。多くの人が良識的にはなりつつあるが、それはまだ表向きのことである場合が多く、他人のことには口は出しても行動で助けようとはしないのが普通である。それを「見て見ぬ振りをする」というが、その心自体が自己保身に繋がっていることを人は理解すべきである。だが「アフガンの難民を救え」とノムは主張するつもりはない。救うべき相手である場合と、自然の成り行きに任せるしかない場合とがあるのであり、下手に感情的人間愛から救済に手を出すと、それこそ自らの集団の存在を危うくしてしまうこともある。ソ連もアメリカもその経験をしたし、ボランティアや団体も同じ経験をした。だが今度は中国とロシアが代わってその犠牲者候補に名乗りを上げた。それは彼らが覇権競争・資源争奪競争に血道を上げる動物的国家だからである。かつてアメリカもそうした闘争で勝利して超大国になったが、やり方は極めて紳士的であった。欧州はさらに遡る大航海時代に、宗教的大義名分の裏で極悪非道なことをやってきた。それは技術的先進性を持っていたが故に可能なことであったし、必然過程であったとも言えよう。現代では欧州が最も真っ当な先進国であると言えるだろう。

  だが現代はそうした野蛮な動物的行為を肯定する者はほとんど居ない。中国の民ですら、人間的にはかなり大脳が進化してきている。だが愛国運動の中で退化させられていることは確かであり、利己的・自己中心的な思考に偏っていることが窺える。ただそれを中国の民の中で意識している人は少ないと思われ、多くの大衆は愛国運動と国家の偉大な業績を正直に自慢し、誇らしく思っているのであろう。だがそれは決して世界に貢献する大国という意識ではなく、世界を支配するという意識によって為されている。コロナ禍を自ら作り出したにも拘らず、謝りもせずにワクチンを配って意気揚々と得意満面となっている様を見るにつけ、「傲慢不遜」という言葉がいつも頭に浮かんでしまう。そんな中国を世界はやっと敵だと気付き始めた。ナチズムに対する警戒がもっと早く、もっと明確であったならば、ドイツをあそこまで強力に傲慢にはしなくても済んだと思われるが、同じ過ちを今度は中国に対して西欧は犯してきた。特にドイツのメルケルの過ちは欧州の中でも突出していた。自国利益を優先したからである。だがそのメルケルもやっと気が付いたようだ。ドイツは3度目の過ちを繰り返してはならない。ノルド2(ロシアの欧州向け天然ガスパイプライン)も中止すべきであった。

  個人にしても国家にしても自身が動物的であるか、人間的(唯一高度な知能を持つ動物)であるかを自己判断すべきである。その判定法を以下に列挙しよう。
 1.自己主張は他者の利益のためであるか?(自己採点:5・自国採点:8)
 2.他者のために何か犠牲的なことをしたか?(10・8)
 3.自国の自慢を世界に誇らないでいられるか?(2・10)
 4.他者を貶(けな)したり、侮辱していないか?(10・10)
 5.報復的措置をとっていないか?(10・8)
 6.軍事を率先して強化していないか?(10・4)
 7.GDPのうち、民の生活向上のために底辺層にどのくらい税金を使っているか?(5・5)
 8.世界の平和のために、国費を何%使っているか?(10・8)
 9.自身が社会に対して無償の貢献をしているものがあるか?(10・10)
 10.過ちを素直に認めることができるか?(10・10)

  他にもいくつも検証項目は挙げられるが、とりあえず点数を出しやすいように10項目に留めておこう。質問に対して良い回答を10点とする。これを各項目ごとに10点満点で採点し、0~100点で表示すれば、自分や自国がどの程度動物性から脱却して、より高く精神的に進化しているかが分かるであろう。筆者が自分に関して採点したところ、80点であった。納得できるだけの自信はある。日本国は81点であったが、この評価は評価者によって相当変わるだろう。総じて高い点数になったことで、自分に対しても日本に対してもより誇らしく思えるようになった。ちなみに自己評価について補足説明しておくと、2.と9.の項については親戚の相続の手伝いを3年掛けて無償でやったし、家の周りの道路の除草をしている。7.に関しては献金をしばしばしている。10.に関しては過ちはすぐに謝るようにしている。自身の面子ということは考えたことはない。

  以上、人間やその組織の動物性について論じてきたが、現代の急速な技術の進展、学問の進歩によって、人々や組織、そして国家の間に大きな知的・道徳的分断が起きているように思われることが新発見であった人間から如何に動物性を排除していくかが、人間の進化にとって大きな飛躍になるであろう。それが実現したとき、筆者は人類の形はそれほど変わらないかもしれないが、精神的に大きな飛躍を成し遂げたネオサピエンスに進化したと考える(4.8「ホモサピエンスからネオサピエンスへの進化 」)。その時が来るのを大きな期待を込めて見守りたいが、生きているうちには実現はしないことは確かである。だがノムにはそうした希望が未来にある。それは人間として最も幸せなことなのだろうと、しみじみ思うのである。


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