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【時事評論2020】

主権論(3564文字)

2020-12-26
  「主権」というものは一般的に国家の独立した決定権を指し、広義には①国家に特有な統治体制選択権・②国家権力の統治権・③国家の独立権、を指すが、外交的に観た場合には、他国からの干渉を受けずに国家が独立して政治・政策を決定できるということを指す。今日ではもっぱら対外的関係においてこの言葉が使われることから、最初に示した「国家の独立した決定権」という定義が最も適切であろうと考える。今日の世界の混迷や錯綜はこの「国家主権」の存在が原因であることは明白であり、それが民主主義の根幹から来ていることもまた明白である。

  未来世界ではこの「国家主権」を否定し、連邦という世界を統一する組織体にのみ主権を与えるという考え方を採っている。各国の政府なりは連邦から自治を任されており、自治国家となる。基本的な事に関しては連邦に決定権があるが、各国の実情に沿う方が良いことについては各国の憲法と法律、そして道理に任せるという手法を取る。本項ではさらに踏み込んで、個人の主権である基本的人権と呼ばれているものに考えを敷衍したい。近代思想(民主主義思想)では個人の主権を基本的人権と表現し、国家の主権を主権と呼んで区別したに過ぎないように思えるからである。そこには根源的な思想の共通性があることから、本項ではそのことを論じてみたい。

  根源的に考えれば、人は思惟の自由を持つ。それは大脳を進化させた人間のみが持つものであり、思考・思索・思惟は段階的表現ではあるがどれも同じものである。動物には選択の判断はあるが、高度な思考は不可能である。人間はこの思惟に依って自らの判断(意志)を優先するようになるが、それは生存本能を持つ動物として当然のことであっただが人が集落を形成するにつれ、人の持つ自由は社会的掟(法)と相克を起こし、王建制度などの下では絶対権力が力関係から人間の自由な判断・行動を制約するようになっていく。そして近代に至るまでこのような状況が続くことになるが、近代では人間の思惟から生まれた反体制的な権利思想が力を持つようになり、それは独立戦争最中のアメリカにおいて1776年のバージニア権利章典として明文化された。その第一条は「人は生まれながらにして自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会状態に入るにあたり、いかなる契約によっても、人民の子孫から奪うことのできないものである。かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利である」というものである。これは「自然法」と呼ばれる新しい考え方に立っており、天賦の権利を主張したところに最大の特徴がある。いわば人が自由人であった古代に先祖返りしたようなものであった。この考え方はフランス革命(1789–1799年)にも引き継がれ、その際に出されたフランス人権宣言標語とされる「自由・平等・友愛」に象徴されるように、再び人の自由に焦点が当てられ始めた。だが18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となっていった。この頃は資本主義が急速に発展した時期でもあり、そのことが思想にも反映されたのである。一方、資本主義は諸々の社会的矛盾を生みだした自由主義理念に基づく自由放任経著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらしたために、無産階級の人々にとっては自由は空しい言葉ともなった。その結果20世紀に入ると、ドイツなどでは社会的な権利を保障するためヴァイマール憲法が誕生し、その流れをくむ自由主義諸国の憲法が次々に成立した。しかし労働者階級の困窮が激しかったロシアではマルキシズム革命(1905-1917)が起り、マルキシズムに基づくソヴィエト連邦が誕生して社会主義に基づく憲法もできた。だがそれも20世紀末(1991年)には資本主義との経済競争に負けた結果崩壊し、21世紀になって新たな勢力として資本主義を取り入れた社会主義を採用した中国が台頭してきた。中国はこれを「特色ある社会主義」と称しているが、実態は独裁社会主義である。

  以上に見てきたように、「主権」という概念は人間が思想的に創り出したものであり、科学的根拠は全く無い。その主権も時代と各国の事情によって変遷してきており、これらは状況理論で説明可能である。すなわち人の主権の在り方、国家の主権の在り方はその時の状況によって決められてきたものであり、絶対普遍のものではない。だが今日の民主主義が趨勢になっている世界では、これが最も価値あるものと見做され、世界の民の多くは個人の主権である基本的人権というものに憧れを抱いており、一方国家はその個人主権が強くなりすぎていると感じて統制を強める方向に動いており、それは独裁や専制という権威主義に向かっている。それを強化するために「愛国」運動というものも一部の国家で盛んに奉じられるようになった。

  つまり世界はいつの時代も個人の思惟の自由から来る権利の主張と、国家という組織体が効率よく国民を支配するために国権の主張を行うという、2つの主張がぶつかり合う相克を続けてきたと考えられる。だがここに、これまでに人類が経験したことのない新たな状況が生じてきている。それは人間活動があまりに強大になったために、地球環境そのものが人間の生存を許さなくなってきているということである。ここに来て人間側が環境に妥協した活動抑制策を取る必要が生じてきているが、人間界では相変わらず私権と国権の相克、国家主権の衝突に明け暮れており、一向に人間活動を制約する気配が見えない。国連の一部だけが科学的論拠を基にそのことを訴えているが、主権を持つ各国の対応は形だけの声明に終わっており、実効的な解決はほぼ不可能となっている。

  その結果は世界的ストレスの増加をもたらし、それはひいては第三次世界大戦を招くことになるのだが、その危機ですら世界は真剣に考えているわけではない。ひたすら目下の政治課題の解決に奔走しているというのが実態であろう。そのような最中にコロナ禍が人類を襲った。それがどういう結末に終わるのかは未知のことだが、ストレスをさらに加速させていることは明らかであり、第三次世界大戦への道を急がせることになるだろう。筆者はそのため、現代において主権の問題を解決することは不可能であると考えており、未来世界にその希望を委ねるしかないと考える。

  未来世界では最初に述べたように、世界が統一されて連邦と言う単一組織体に統合されていると仮定すれば、主権問題はその時点で解決しているということになる。だが、細かな点では主権の階層化というものがあるため、各層に応じて判断権が分散されるだろう。すなわち主権は下層に委ねられることで判断権というものになるが、飽くまでも連邦が最高判断権を持つということになるため、矛盾はないということになる。会社の組織に例えれば、CEO(通常「社長」と称される)が最高決定権を持つが、その決定は取締役会で為されるのが通常であり、取り締まり役という上層部が下位判断権を持つと解釈される。さらにその下に部長なり、支店長なりが続くがこれらは命令の上位下達原理に基づいて行われていく。

  再び個人の主権である「基本的人権」というものに考察を向けたい。これは上記したように人間が民主主義という思想の中で考え出した概念であって、科学的根拠がないことを説明した。本来ならば組織とその構成要素である個人との間には一種の社会契約があるのであり(「社会契約説」)、人は国家に対して義務を果たして初めて権利が認められる。だが上記したバージニア憲章にしてもフランス革命の理念にしても、権利を主張しているが義務が書かれていない。そこから矛盾が生じてくるのは当然のことであり、今日の国際関係において中国が国際裁判所の決定を「紙くず」と唾棄したことで、中国が国連から追放されるということもないという矛盾が起きているが、個人の問題に於いても主張者の義務履行の程度が測られることはない。そこに決定的な矛盾の生じる原因があるのである。

  未来世界では義務を果たさなければ権利が生じないため、生得的な「基本的人権」という概念はない。全ての権利が義務を果たして生ずるために、義務を放棄した場合には権利の一部が喪失することになる。これは個人にとって非常に痛手であるため、ほとんどの人が義務を忠実に果たすようになるであろう。それが未来世界が真社会主義という体制が最善であると見做す理由ともなっている。もし現代にこの考え方を取り入れれば、もっとずっと良い世の中になることは間違いないことであろうと考える。




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