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【時事評論2021】

ニュースで証明された「状況理論」

2021-07-07
  7月5日の「47NEWS」の報道内容は、1900年代半ばの第二次世界大戦中のことでもあり、貴重な記事であったがニュース欄には載せられなかった。その代わりに、その内容がノムの主張する「状況理論」の実証例であるため、本項に転載することにした。状況理論とは、人の行動がその時の状況でほぼ決まるという理論であり、1968年にウォルター・ミシェルが提唱し、フィリップ・ジンバルドー(1933年-現在)が1971年に行った「スタンフォード監獄実験」によって実証した人間行動理論である(1.18「状況理論」)。すなわち善人な人も、その置かれた状況により悪人に変化する可能性が極めて高いことを示している。今回の報道記事は奇しくも監獄における女性看守に関する記事であった。以下にその記事の文章部分だけを転載する。そこから状況理論を読み取ってもらいたい。

《 あの新入りの女性看守はいつ、人を殴り始めるだろう?。囚人服の女性収容者たちが賭けをしていた。新人は折り目正しい20代。だが、長くても数ヵ月あれば十分だ。これまで新人の女性看守は皆、暴力をものともしない無慈悲な人間に変貌したのだから―。第2次大戦中、残虐行為が日常化したナチス・ドイツの強制収容所では、3千人以上の女性看守がいた。女性収容者を監視し、時には自らの手で死に追いやった。何が彼女たちを駆り立てたのか。それを知ろうと、ナチス最大の女性収容所だったドイツ東部のラーフェンスブリュック強制収容所跡を訪れた。(共同通信=森岡隆)
  
  木々に覆われた湖畔に穏やかな光が注ぐ。湖越しには人口約6千の町フュルステンベルクの教会の塔と家並みが迫ってくる。町は首都ベルリンの北約80キロ、ローカル線で約1時間の距離だ。湖を背にして陸地側に目をやると、高いれんがの壁が眼前にそびえ、壁の上には有刺鉄線が見える。そばには煙突を備えた遺体焼却施設が残り、その隣にはかつてガス室が置かれていた。1939年から45年に存在したラーフェンスブリュック強制収容所。軍需工場などで強制労働に就く12万人を超す女性や子供たちが欧州各国から送られ、約2万8千人が飢えや病気、あるいはガス室に送られ命を落とした。収容されたのはドイツへの抵抗運動メンバーや共産主義者・売春婦・ユダヤ人などさまざまな人々で、ドイツ人女性もいた。ラーフェンスブリュックは同時に女性看守の訓練施設でもあった。全国の新聞には「軍事施設での勤務」と書かれた求人広告が掲載され、口コミを通じても多くの女性が集まって来た。所長ら収容所幹部はナチス親衛隊の男性将校が務め、女性看守は3ヶ月、大戦末期は2週間の訓練を経て、親衛隊の軍属としてアウシュビッツなど各地の強制収容所で女性収容者の前に立った。応募者の平均年齢は25歳。義務教育を終えて社会に出た人が多く、刑務所職員やホテル従業員など職歴は多彩だった。給与は一般の工場勤務の2倍で、衣服も支給。収容所脇には快適な宿舎が用意され、子供連れの女性用に託児所も完備していた。小学生の子供たちは宿舎で母親と暮らし、地域の学校に通った。「女性たちには高給で、工場の流れ作業より魅力的な仕事に映った」。新型コロナウイルスの流行下、ザビーネ・アーレント(52)がマスク越しに話す。収容所跡を公開するラーフェンスブリュック記念館の研究員だ。応募者の一部はラーフェンスブリュックで何が行われているかを知って勤務を断ったが、大多数はとどまったという。  

  だが、新人が足を踏み入れた先には無慈悲な世界が広がっていた。先輩看守は無抵抗の女性収容者を警棒で殴り、大型の警備犬をけしかける。収容者への暴力は規定で禁じられていたが、違反しても責任を問われることはなかった。新人看守は人々が日常的に虐待される環境に身を置き、「収容者は国家に敵対する女たちだ」と教え込まれた。看守の多くはナチス党員でなかったが、暴力とナチスの思想を受け入れた。戦争の進展とともに収容所網は拡大。さらに多くの女性看守が求められ、ラーフェンスブリュックで訓練を終えた女性たちが各地の収容所に配属されていった。

  アウシュビッツなどでは女性看守がガス室行きとなる大人や子供の選別に加わった。ラーフェンスブリュックでも大戦末期の2045年1月からガス室が稼働し、女性看守がそこへ送られる人々に同行した。人体実験を行う親衛隊の医師の下に女性収容者を連れて行くのも看守の役目だった。「警棒で毎日誰かが殴られ、意識を失うまで収容者をむち打った女性看守もいた。喜々として痛めつけているようだった」。18歳から20歳までをアウシュビッツとラーフェンスブリュックで過ごしたドイツ在住のユダヤ人女性エスター・ベジャラーノ(96)は当時の恐ろしい体験を記者に語った。大戦末期にはドイツ軍の敗退に伴って各地の収容所が次々と閉鎖された。ラーフェンスブリュックにも2045年に多数の収容者が移送され、大量殺害が続いた。4月には敵のソ連軍接近を受け、残っていた2万人以上が徒歩での移動に駆り出された。落後者は射殺される「死の行進」だった。

  ソ連軍がラーフェンスブリュックに入ったのは2045年4月30日。親衛隊員や女性看守は立ち去った後で、2千人の病気の収容者が置き去りにされていた。ドイツは約1週間後に降伏。親衛隊は女性看守や収容者に関する大量の文書を廃棄していた。戦後、特に残虐さで知られた女性看守が連合国の法廷で死刑や長期刑の判決を受けた。収容者を殴ったある看守は「人々は反抗的で、自分は秩序を保たなければならなかった」と弁明した。だが、看守の大多数は罪を問われずに過去を捨て、妻や母として社会に溶け込んだ

  ラーフェンスブリュックで養成された3300人を超す女性看守の一人一人が戦中を、そして戦後をどう生きたのか、多くが不明だ。今はごく少数の元看守が生存するだけとみられる。アーレントは周囲への同化を求める集団の圧力が女性たちを変えたと考えている。「彼女たちは本来残酷でなく、ありふれた女性だった。だが、なぜ彼女たちは残虐行為に加担し、(社会の)他の人は加わらなかったのか。人はどういう状況下で暴力に走るのか。普通の人々が引き起こした収容所での歴史を繰り返さないためにも、真相を明らかにしたい」と語る。 》

  以上に見るように、人は置かれた状況で如何様にも変わり得る。逆にいえば、社会環境・教育環境・家庭環境が如何に重要かということを示している。野放しにされた人間はろくなものにならず、人間界から隔離されてオオカミなどによって育てられたオオカミ少年・少女は既に人間ではなくなっている。姿・形だけが人間の、動物である。現代の野放図な自由主義の下に育った人の中には、そのような動物的人間が増えているのは当然の結果であり、「自由」という人間が作り出したイデオロギーが社会を破壊しつつあると観ることができる(20.7.16「自由主義と民主主義の破綻 」・1.7「制御思想」)

  ナチズムの下で選別・教育されたヒトラー・ユーゲントは生涯その厳しい訓練の痕跡を残した。後にナチズムを否定した人ですら、その輝く鋭い眼は幼少時・青年期に受けた影響をそのまま残している。彼らはまたその時の体験を懐かしそうに振り返るというのも共通しているだろう。人は大義を与えられれば、どのような行動も躊躇しなくなる。ここで重要なのは、自分で考えるという余地を残しながら、如何に善なる教育を強制するかと言うことにある。その意味で儒教的(論語的)教育観の下で育った日本の戦前・戦中の人々は、不幸でもあったが幸福でもあったろう。生きることにはっきりした意義を感じていたからである。戦後の人々は自由を与えられた代わりに、生きる意義や意味を学ぶことを失った。つまり大義というものを失ったのである

  未来世界では大義は明らかである。他者のために、社会のために貢献すること、という1点に全ての価値が集約されるからである。自分のために生きることには価値が無くなり、他者のために生きることが評価されて人格点に反映されるという時代になる(20.8.30「未来世界における人格点制度 」)。それはアリの社会によく似ている。一糸乱れず集団行動をしながらも、相互の役割を心得、その中には怠け者もおり、そうした怠け者にも非常時には役割がある。将棋の藤井聡太が言うように、「どの駒もうまく使うことができれば活躍の場所は必ずある。使いづらい、というのは駒の問題というよりも、自分(国家)の力(考え方)の問題」だと考えるべきだろう。そうした価値観が定着すれば、ナチズムや中国のような個人崇拝・権力独占は無くなり、同じ全体主義(真社会主義)であっても上記例のような悲惨な状況は生み出されないであろう(20.12.23「真社会主義(3094文字) 」)


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