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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

平和主義は間違っている

2021-07-07
  自然界と人間界は闘争原理に基づいている。自然界で人間が平和を唱えたら、たちまち野獣に殺されるか、病気に打ちのめされて死ぬであろう。あるいはシラミやダニに悩まされる。人間界で平和を唱えたならば、テロリストに銃殺されるのがオチだ。その原理を人間界では法や道徳で制御している(1.7「制御思想」)。だが平和主義者は平和を唱えるだけで平和がもたらされると考えている。そうした考えそのものが最初から破綻していることは、自然や人間界の仕組みを理解していないことにより明らかである。

  女の発想にはこうした自然界の厳しい掟や叡智に対する理解が欠如しており、しばしば感情的あるいは情緒的発想から平和を唱える。平和主義者のデモに圧倒的に女が多いのはそのせいである。現実と闘っている男にはそうした発想は少ない。男が平和主義を唱える場合は、妄想に基づいた平和思想があるからであり、それがどんなに一方的な論理で説明されていたとしても、現実に当てはめればはやり破綻していることは明白である。

  だが人類が多くの戦争による悲惨な状況に遭遇してきたことから、女が平和を求めるのはごく自然なことであり、権力とは余り縁の無かった女が、戦争を否定して平和を願うのは当然なことである。また男も現実に直面していながらも、多くの男がやはり平和を求めているというのは、これまた当然なことであろう。だが問題は、どうしたら平和を達成できるのかという現実的なプロセスなり、闘争の原理の抑制もしくは制御という本質的な議論が全く為されておらず、単に「平和宣言」というようなもので誤魔化しているところにある。 

  筆者は孫の面倒をみながら、自然界の生存競争や人間の都合による生殺与奪をどう子どもにどう教えるか悩む。たとえば平板の下に巣を作ったアリを見せると、その活発なアリの行動に孫は目を見張る。だが大人からすれば、アリは益虫でもあるが害虫でもあり、作物や建物からすると駆除しなければならない対象であり、筆者も防蟻剤を巣に撒くことにした。孫はアリが居なくなったことに不思議を感じるが、その理由については知らない。そして防蟻剤にもめげずにアリが再び発生すると、孫はまた目を輝かせるのである。

  平和主義者はこの子どものような素朴な生命尊重主義に立っているのであろう。だが平和主義者と言えどもその多くは肉を食べる。その肉は牧畜によってもたらされたもので、今や地球を破壊している元凶ともなっている。平和主義者が肉を拒否し、生活を支えているトイレの使用を拒否し、地面に直接糞尿を還元するという生活を選択しているならば、そうした平和主義は本物である。だが現代生活を享受しながら、言葉だけで平和を唱えている人の平和主義は明らかに間違っており、自己撞着でしかない。あるいは我田引水と言ってもいいであろう。そうした人は他者に対する理解や寛容も無く唯我独尊に陥っており、自然界に対しても偏見の目で理解している。

  平和を達成するには、まず人間界の制御が必要だという認識に立たなければならない。自然界は自然の摂理に任せるべきであり、自然淘汰は進化上やむを得ない自然の智恵である。動物愛護や動物保護、人間生命至上主義は偏った平和主義に基づいており、その労力やエネルギーを環境整備に注ぐべきである。その次に自然との闘いは避けられないという認識を持つ必要がある。人間が完全に自然界と一体であったのはせいぜい原人までであり、それ以後は人間は独自の生態系を形成するようになった。それは居住区という一種のコロニーにおける生態系である。その中には野獣や害虫の侵入を許さなかった。そのことで人間は衛生的な環境を保つことができ、生存に有利性をもたらすことができたのである。人間はその人工生態系を広げ、産業革命以降は人工生態系に化石燃料由来のエネルギーが使われたことで、現代文明の代償として自然生態系を破壊するようになった(3.1「生態系維持の難しさ」)。特に有毒物質・排煙は回りまわって人工生態系にブーメランすることにより、公害問題を惹き起こした。そして人間が地球全体に進出することにより、その棲家である地球そのものが汚染されることになり、環境汚染が発生した。すべて自業自得・因果応報という古来からの警句が適用できる事例である。

  そこで自然界との共生の手段を模索しなければならない(2.18「人間はウイルスとの共生を考えなければならない 」)。人工生態系は極力閉鎖系にし、その中で物質・エネルギー循環が行われるべきである。人工生態系の廃棄物を自然生態系に排出してはならないと考えるべきである。①人間活動による排ガスは大気に放出してはならない・②人間活動による廃水は自然界の陸地や河川に放出してはならない・③人間活動による廃棄物を自然界に投棄してはならない、という3原則に近づくべきである。②については人間は理解して浄水場を作った。だがそこから出る活性汚泥を石油で燃やすことにより、二酸化炭素を大気に放出して結局大気を汚染している。③についてはゴミ焼却場を作った。だがこれも二酸化炭素を大量に放出して大気を汚染している。①についてはやっと地球温暖化の問題から対策が採られ始めたが既にそれは遅く、自然環境の受容可能範囲を超えて不可逆過程に入ってしまっている

  人間は自然と共生関係にあるが、時には病気と闘わなければならないときもある。コロナ禍は本来は異常な人口爆発に対する抑制機能であるが、それをも人間は撲滅しようとしており、そこには自然界を支配しようとする思想が見られる。人間が病気と闘おうとしていることに平和主義者は反対はしない。問題が全く別であると考えているからである。平和主義者は人間の戦争だけを無くそうとしており、病原菌との戦いは許容している。だがそれは原理的な矛盾を持っていることに気付かなければならないはずである。

  平時には人間は人間界の中で共助関係にあるが、時には戦争という形で戦わなければならないときもある。それは国家に主権というものが存在しているからであり、国民は国家という集団を通じてその主権を行使している(【時事通信】中国・7.5「習近平が・・」)。つまり自己利益最大化を求めている。各国が自己利益最大化を求めれば衝突するのは明らかであり、平和主義者はそれをどうやって食い止めようとするのか、その理論を持たない。つまり単なる理想主義から出た妄想であるため、理論的な説明の努力は全くしようとしていないのである。現在の状況ではノムは敵対する攻撃勢力と戦うことには合理性があると考える。滅ぼそうと攻めてくる勢力に立ち向かうのは生物として当然のことであり、権利、平和云々の問題ではない。これは生物本能に基づく行動である。中国が日本を攻撃してきた場合、それを許容して中国に支配されるのを受容するのが平和主義者の立場なのであろう。支配者に隷属するのが平和主義者の立場なのであろう。

  戦わずして隷属するという極めて不自然な平和主義の考えには欺瞞があると考えられる。すなわち平和主義はリベラリストの主張であると一般に受け止められているが、実は共産主義、もっとはっきり言えばマルキストが流した敵を懐柔するためのプロパガンダであると考える。これはソ連時代からのものであるが、現代にもその残滓が残され、リベラリストの合言葉となった。彼らはその欺瞞性やプロパガンダ性に気付いてはいない。そして平和主義は崇高な人類の目標であるとさえ思っている。すなわち彼らは妄想の中に浸っているのである。

  もう一度総まとめをしておこう。自然界では生存闘争が摂理であり、それによって生物は進化してより高等化をしてきた(5.3「自然の摂理 」・6.8「新・進化論 」)。その頂点に立った人間は、愚かなことに自然界の生物を支配しただけでなく、それを破壊し、さらに同種同士の争いをした。それが戦争である。そこで理想主義者は単なる妄想から平和主義を唱えた。それは戦わずして強者に隷従することを意味するが、それを利用したのがマルキストであった。相手に戦争意欲を喪失させるために格好の理念であったからである。だがマルキストに限らず、社会主義国のほとんどが独裁国家になり、他国に戦争を仕掛けることでその欺瞞性が暴露されたため、唯一リベラリストだけが平和主義を唱えている(尤も中国でさえ、「世界平和」を呪文の如くに宣言の中に入れている)。日本では、戦後のアメリカによるプロパガンダ教育により、戦争被害者らが平和主義者に変貌した。彼らは戦時中は真っ当な戦争協力者だったのにである(1.18「状況理論」・7.7「ニュースで証明された「状況理論」 )

  子どもらに戦争のことをどう教えるかが重要である。現代では戦争が不可避のため、その備えのために他国からの侵略に備えることを子どもに教えるべきである。未来世界では戦争がないため、逆に世界や国家、そして地域に対する貢献を教えるべきである。また人間は自然と共生関係にあるが、時には病気と闘わなければならないときもあり、生物として他の生物を食して生きる宿命にあることも教えなければならない。それを残酷なことだとか、悲惨なことだとか思うのは、幼稚な幼子の感情であり、大人ならば自然界の仕組みに対して無用な思考はしない(7.8「無用の要・それは必要ですか?」)。誰もが自然な感覚で動物の肉を食する。子どもらも大人になれば、それは自然なことだと理解するであろう。

  だが食肉が大規模な資本主義的畜産業によって生産されていることで、環境問題を深刻に捉えている平和主義者の中には肉食を拒否する者も出てきた。それが動物愛護精神に基づいているとすれば前述したように間違いであり、地球環境主義に基づいているとすれば正しい。だが人が雑則性であることは自明の理であり、菜食主義を他者に押し付けようとするのは間違いである。しばしば平和主義と菜食主義が混同していることがあるが、それはそうした思想が情緒主義から出ているからであろう。平和主義と菜食主義には本来関係はない。過激なベジタリアンやビーガンは他者にその考えを強制も主張もすべきではなく、平和主義者も「平和」を他者に主張するのは間違っており、自ら平和を作り出す活動(自給自足的農業など)に専念すべきである。筆者はノム思想を広めるという活動を通して平和の創造に寄与していると自負している。


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