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【時事評論2021】

現実主義(現実論)

2021-06-02
  「現実主義」とは、事象を考察するときに、現実から出発しようとする思考であり、理想から出発しようとする「理想主義」と対極にある。科学はその両方を持つ学問であり、現実から演繹法で法則や原理を導き出そうとする一方、数式など操って新しい世界観を導き出し、それを仮説として主張もする。それが時に現実離れしていたとしても、後日に観測などで証明されることがある。量子力学は当初そのような非現実的世界を我々に示した。また相対性理論も時間の概念の常識を覆した。現在ではマイナス時間や虚時間という概念さえ検討されているようだ。

  現実主義は科学の出発点であり、また社会学においては重要な思考の出発点でもある。だが現実に囚われていては、理想というものを追い求めることはできない。やはりここでも科学と同様、理想と現実の両方を有用に活用していかなければならないのである。そんな思考をしながら、現実主義についてまだ書いていないことに気付いた。本項ではノム思想の拠って立つべき考え方として採用している現実主義について述べていきたい。

  人間が本能のままに我欲を追求し、特に大脳を発達させて知能を持つようになってからは、好奇心と我欲が結びついてありとあらゆる分野に科学を適用し、その善悪を問わないまま突っ走ってきた。だがその結果、人間は自分自身の存在を危うくする事態に追い込んでしまった。これは聖書の「善悪を知る木の実を食べてはならない。これを食べると人は死ぬ」という逸話(「創世記」2:17)を広義的に解釈すると当てはまることであり、聖書の奥深い哲理をここにみることができる(4.27「善悪の基準とその闘争 」・4.28「善悪の視点の問題 」)。だがこの話は重要な意味を持っており、人は善悪を知るようになったということである。これを筆者は人間の持つ直感的本能の1つとして捉えているが、それが本能なのか後得的(筆者造語)学習から生じたものなのかについては確証を得ていない。そうした人間を用いた実験が行われたことがないからである(1.18「状況理論」参照)

  もし赤児を誕生から善と悪の世界で養育し、その成長後の思考・行動を解析すれば、人間の持つ前悪の意識がどこから生ずるのかという疑問についてある程度の知見が得られるかもしれないが、そうした非人道的実験は許されていないし、恐らくこれからも許されないであろう。筆者は現実論から、人間は生来的に善悪の意識を持っていると考えるが、それは孫の躾をする際に感じるのは、学習の結果として脳に刻まれるのかもしれないという考えも依然として残していることに気が付くのである。2歳10ヶ月になる孫は、悪いことをしたという意識が既に芽生えており、誤魔化そうとか隠そうという行動が出てきている。だがそれは大人の場合にはどうでもいいことであり、全ての大人は善悪の意識を持っている。だが悪人は悪の意識を持ってはいても、それを楽しむような精神構造を持っているのであり、常人のような反省・自省という意識はほとんどない。それが現実というものである。すなわち、「人は善悪の意識を持つ」というのが科学的知見であるとすれば、「人は悪を合理化して正当化する」と考えるのが現実主義の考え方である。

  科学では「自然界には善悪という概念はない」と考え、それは正しい。だが一方、人間思考では「人間界には善悪という基準がある」と考えるのも正しく、それが常識ともなっている。筆者は人間界の事象を考える時にこの考え方を適用し、それを現実主義と称している。それは人間側からの視点であるという前提条件を付しているので科学的思考との矛盾はない。ある番組でアスリートに対する体罰について問題提起されていた。指導者は体罰がなければアスリートは優秀な成績を残せないと考えており、アスリートはこれを人間性否定と考える。どちらが正しいかと番組は問い、体罰なしでも優秀な成績を残せるという事例を紹介した。筆者は体罰が必要なのは子どもの頃のわずかな時期(2歳前)であり、大人には言葉による指導と賞罰で十分だと考える。これは現実主義に基づく考え方である。

  ノム思想において現実主義の立場を取るということは、事象を考察する際、それが人間にとって良いことか悪いことか、という判断をするということを意味する(20.9.7ノム思想(ノアイズム)とは何か? 参照)。たとえば人間生活を豊かに便利にしてくれている石油(石油文明とも呼ばれる)を善なるものと以前の人々は考えていたが、現実はそれを打ち砕いた。すなわち石油が地球温暖化の原因であることを知ったことで、石油は悪であるという認識が現代では常識になりつつある。これを科学的に説明すれば、非常に長期に亘って地球系に貯蔵された貯蔵系(バイオマス・非バイオマスを含める)が短期に環境に放出されれば、当然のこととして環境に変動が起こる、という表現になり、その変動が地球温暖化であり、その地球温暖化は人間を含めて動物界にとっては致命的な結果をもたらす、というのが現実なのである。我々が科学を最上価値に据えるならば、人間は死に絶えたとしてもそれは自然の為せる業であって何も問題はない、ということなる。だが我々人間は生き延びたいという本能を持っている。そこから、人間をどうしたら生き長らえさせることができるかを考えるのである。この思考自体が現実主義から出てきていることは明らかなことであろう。

  科学至上主義が恐ろしいのは、科学は人間の存在を特に重視しているわけではない、というところにある。原爆を開発したのは人間の欲得という人間本能によるのであり、それを科学の発展・進歩と絶賛する科学者がいたことは明らかとなっている。そしてその原爆が人類を破滅に導く悪魔の兵器となったことは現実である。もし現実を重視しようとするならば、科学的にそれが人類を滅ぼすかもしれないと言う予測が成り立つし、原爆開発者(特にオッペンハイマー)はそれを予測していた。現実主義者ならばこの開発を断念していたかもしれない。つまり現実主義というのは現実を認めるということではなく、現実を認識するということを意味する。その上で、最上の方法を探ろうとするのが現実主義者の取る姿勢である。

  そのような意味で、現実主義者はかなり現実認識に長けていなければならず、科学的認識にも長けていなければならないことが分かる。科学者の多くが名誉を求めて科学至上主義の立場を取るが、それは大きな過ちをもたらすことが多い。現代でもそれは続いており、世界の貧困を救い、後進国に井戸や生活インフラを整えたり、現代的教育を施したりできるほどの莫大な予算を、先進国政府は科学研究に注いでいる。もしそれを未来のために、後進国の教育に注いだならば、そして技術を惜しむことなく後進国に提供していくならば、今日のような貧富の格差や紛争はかなり減らせることは明らかであるが、それは競争原理がある限り不可能だということも現実主義は教えてくれる。一方理想主義者は人間本能というものを考慮しないため、理想に走った道義論に終始し、それは何の解決ももたらしてくれていない。「~すべき」という論には、それを実現させる手法が伴っていなければならず、それを与えてくれるのは現実主義者である。

  以上の議論から現実主義が如何に有用であり、人間界の問題を解決する唯一の手法であることが分かるであろう。ノム思想がこれを基本的な原理として採用したのも、そうした考察を重ねた結果であり、現在までの検証で現実主義が最も優れていることが分かっている。現実主義には過酷な面もあり、冷酷に思える手法もある。だが結果を重視するこの考え方はこれから最も重要視されてくるのは間違いないだろう。理想を求めて反って世を悪くしてしまった「アラブの春」の革命劇を我々は繰り返してはならない。

(21.5.25起案・起筆・5.27終筆・6.2掲載・24.4.27改題)


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